《世に向かって公然と話す》
ヨハネによる福音書 18:19~24
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まり会堂や神殿で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。(ヨハネ 18:19~24)
人々は、ユダヤ人を恐れてイエスについて公然と語ることができませんでしたが(7:13)、御子イエス・キリストは、世に向かって公然と大胆に語ったと告げています。イエス・キリストが「世に向かって公然と話した」というのは、ヨハネによる福音書の初め1:18において、御子において神が明らかに示されたということを現している言葉です。
大祭司に向かって、語ることは、御子イエス・キリストは、隠された存在ではなく、明らかにされたお方だということです。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(1:10)世は、言を通して神に造られましたが、同時に神にから離反しているのです。神から、離反している世に、神は御子を通して現し、徹底的に世を愛されました。
イエス・キリストは、確かに神殿でも、確かに公然と語っていたのです(7:14-39)。大祭司も含めて、誰でも聞こうと思えば、聞くことができました。さらに、主イエス・キリストが語ったことを聞いたものたちが、そこにはいたのです。しかし、主イエスが話したことを告げるものは、いませんでした。
イエスさまに向けられた大祭司の問いー弟子のことや教えについてーは、後に、キリストに従うものたちに、向けられる問いでもありました。主イエスが「わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」と言われるように、主に従うものたちによって、御子イエス・キリストは、証言されるようになります。イエスさまの語ったことは、イエスさまが語られたことを聞いた人々によって、伝えられてきました。
御子が公然と話してきたように、主に従うものたちは、大胆にイエス・キリストについて語りだすようになります。
公然と語ることができなかったものたちが、語ることができるようになったのは、彼らに、確信が与えられたからです(エフェソ3:12)。神に対する大胆さ(ヘブライ4:16)が、世に向かう態度を変えていったのです。わたしたちの神から〈全き勇気を与えられ〉、神の福音を語ることができるのです。(1テサロニケ2:2)
《祈り》
言によって世を造り、今も造られたすべてのものを収めておられる神さま。あなたは、イエス・キリストによって、その御心を表してくださいました。イエス・キリストについて公然と語ることができなかったものたちが、主が復活された後、聖霊なる主によって勇気を与えられて、大胆に恵みの座に近づき、変えられていったように、わたしたちに確信と勇気を与えてください。どのような時にも、誰に対しても、大胆にイエス・キリストを語ることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2023/5/7 聖餐式 橋本いずみ)