2023年7月2日 主日礼拝

《 ピラトの恐れ 

ヨハネによる福音書19:8~12

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとはされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない、王と自称するものは皆、皇帝に背いています。」                 (ヨハネによる福音書 19:8~12)

神の御子、わたしたちの主、イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられました。ピラトは、使徒信条においても、他の福音書においても、主イエス・キリストの受難と関係して名が挙げられています(マルコ15章、マタイ27章、23章)。ポンテオ・ピラトの名によって、イエスさまが、この世界に、本当に生きられた人であるということが、分かります。

ピラトは、イエスさまが十字架に架けられる際に、裁判官として立たされた人でした。彼は、イエスさまは、無罪だと思い、釈放するように努めましたが、結局は、イエスさまを殺そうと企んでいる人々の力に押されてしまうのです。

イエスさまは、今日読んだ聖書の箇所で「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」とおっしゃっておられます。これは、ピラトには罪がなかったと言うわけではありません。ピラトの罪は、神の前でどんな罪だったのか。彼は、上から委ねられた立場にあって、この裁判を任されました。彼は積極的に、イエス・キリストを排除したわけではなく、イエスさまに罪がないということを認め、「神の子」かもしれないということで恐れを抱きながらも、罪に傾いていきます。

 一方、イエスさまを引き渡した者たち(カイアファ、ファリサイ派の人々、ユダヤ人たち)は、立場、権威を失いたくないがゆえに、自らを正当さを主張するために、イエスさまを認めず、神が遣わされたキリストを拒絶し、殺そうと企てます。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白され続けますが、今日読んだ聖書の箇所で、主は、ピラトの罪よりも、もっと重い罪があることを告げています。

イエスさまを引き渡したほどの罪を犯したのではない、比較するならば、軽い方の罪のピラトです。彼は、神の御子であることを示されて、正しい恐れを抱いて、「お前は何者か」とイエスさまに問いますが、自分が権威を持っているように振る舞います。主は、その権威は「与えられた上(神)から」の権威であること告げておられます。ユダヤ人たちが語る言葉によって、神への恐れは、皇帝への恐れにとって代わり、神さまを蔑ろにするのです。

 神への恐れることは、ただの恐怖ではなく、神が愛をもって裁かれることを受け止め、神を信頼し、神に従う道を開きます。

《祈り》

十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。主イエス・キリストは、すべての者たちが救われるために、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受けられました。主の御苦しみによって救いへ入れられたことを恐れつつも感謝いたします。十字架あなたの前に正しく恐れ、あなたが愛をもって導かれることを知ることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2023/7/2 橋本いずみ)