2024年3月17日 主日礼拝

《 祈りー偉大な大祭司がおられる 》

ヘブライ人への手紙  4:14~16

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。  (ヘブライ4:14-16)

教会創立77周年を迎えました。『五十年の歩み』の年表には、「1945年8月19日一麦寮に避難してこられた吉田源治郎牧師が、同居中の生駒憲彦兄(元神戸イエス団教会会員)と二人で祈祷会を始め、同時に近隣への伝道を開始された。これが西宮一麦教会の母体となったのである」「1947年3月17日 「礼拝は一麦寮二階(畳敷部屋)で守られた(教会員数22名)」と記されています。

77年間、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただきながら、西宮一麦教会は、歩んできました。受け継がれてきた信仰をしっかりと保ち、大胆に祈る共同体でありたいと願います。

祈りと公に言い表している信仰(信仰告白)は、切り離すことができません。なぜなら、信仰告白では、祈りの相手である神がどのような方かが言い表されるからです。

公に言い表している信仰(信仰告白)というのは、「一つの言葉」という言葉で、「告白」「あかし」という意味があり、動詞では「(信仰)告白する」「賛美する」「主張する」「約束する」「認める」と。教会は、イエスは、神の御子、キリスト、主であると告白してきました。そして、この信仰告白が大胆な祈りを可能にします。

イエスさまは、神の御子「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブ1:3)であるとの信仰は、神の前で畏れを抱かせます(出エ3:5、イザ6:5、ルカ18:13)。しかし、イエスさまが神の御子「偉大な大祭司」であるとの信仰は、畏れをもっていても、ビクビクした祈り、型にはまったよそよそしい祈りではなく、大胆な祈りへとわたしたちを導きます。

主イエス・キリストは、偉大な大祭司です。わたしたちの数々の弱さを思いやり、罪は別にして、わたしたちとまったく同じ方法で試練に遭われました。イエスさまは、まったく人間として歩まれました。わたしたちが人生で経験する不確かさ、弱さ、誘惑、苦しみ、そのすべて経験されました。

祭司のつとめとは、民に代わって神に近づき、民が携えてくるもの(神への献げ物、感謝と悔い改めのしるし、祈り、心配事、最も深いところで必要としているもの)を集めて、神の面前へと持っていくことです。偉大な大祭司は、御自身を神への完全な献げ物として、わたしたちの困窮、痛み、病、正義への渇望、平和を求める叫びを神の御座に運んでくださいます。

このような神の御子偉大な大祭司がおられますから、この偉大な大祭司の憐れみを受け、この偉大な大祭司の恵みにあずかって、畏れをもって、自由にかつ、親しみをこめて、わたしたちの必要を神に祈ることができます。時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

《祈り》 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神さま。西宮一麦教会創立77周年を迎えて御名を賛美します。信仰が受け継がれ、時宜にかなった助けをいただきながら、祈りの共同体が守られてきたことを感謝いたします。わたしたちの救いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストへの賛美でこの教会を満たしてください。偉大な大祭司の姿に倣い、この世にあってとりなし祈る祭司のつとめをなさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2024年3月17日 創立記念礼拝 橋本いずみ)