2024年11月3日主日礼拝 説教

《 眠りについた人たち 》

コヘレトの言葉 3:1~8

テサロニケの信徒への手紙一4:13~14

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時/保つ時、放つ時

裂く時、縫う時/黙する時、語る時

愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時

(コヘレトの言葉 3:1~8)

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。                

(1テサロニケ4:13~14)

天の下で定められた時を生き、眠りについた方々を覚えつつ、今日は礼拝をささげます。わたしたちは、この地で神さまが定められた時に、目に見えるものと目に見えないものが繋がっていることを知るのです。

 神さまは、天の下に私たちを生かしてくださいます。この地での歩みは、喜ばしいこともあれば、悲しいこともあります。コヘレトの言葉が言う「時」というのは、どちらかに価値があり、どちらかだけが、尊いというのではなく、これらの時は、神さまを知る機会として、天の下にある地であるということを知る機会なのです。

生まれる時は価値があり、尊ばれ、喜ばしいが、死ぬ時は、価値がなく、嘆き悲しみしかないというのではなく、生まれる時も、死ぬ時も、同じ神さまの御手が添えられているのです。生まれる時に、感謝と喜びと賛美があるように、死ぬ時にも、キリストにあって、感謝と喜びと賛美に満たされるということがあり得るのです。 私たちが、生きるのにも喜びがあり、悲しみがある。死ぬのにも喜びがあり、悲しみがあると語ることができるのは、イエス・キリストが生き、そして、十字架で死に、よみがえられたからです。

イエスさまが、死んでよみがえられたゆえに、わたしたちは死ぬ時に、絶望し嘆き悲しむだけでなく、希望をもって、主をほめたたえます。

 キリスト者は、イエス・キリストの復活を信じています。これは、信じ難いことだと思いますし、たくさん勉強したら理解できるということでもありません。主の恵みによって「信じていること」としてしか、紹介はできないのですが、キリストの復活を信じるということは、私たちの生き方を大きく変えるものです。このことを信じる時に、死にも希望があると語ることができるようなるのです。

 なぜなら、イエスさまを信じて眠りについたものを、イエスさまと一緒に導き出してくださるというのが、神さまの約束だからです。約束ですから、まだそのことは起こっていないのですが、この約束をわたしたちは、イエス・キリストの言葉と業、十字架の死と復活によって、必ずそうなるであろうと信じています。この日、この約束を信じて眠りについた者たちを思い起こしつつ、わたしたちも、この約束を覚えて、主をほめたたえます。

【祈り】 

天の父なる神さま、今日、主を信じて眠りについた方々のことを思い起こして、あなたの御名をほめたたえます。あなたは、天の下に時を定め、生まれる時を与え、この地上での様々な時を与えて、眠りにつく時をお与えになりました。主イエス・キリストが復活の初穂となって永遠の命の道を開いてくださったことを信じます。今、嘆き悲しみをあなたに委ねます。来るべきときに、わたしたちを、そして、主を信じて眠りについたものたちを、イエス・キリスト共に導き出してください。御名によって祈ります。アーメン。

  (2024年11月3日 召天者記念礼拝 橋本いずみ)