《 救いの歴史につながる一人として 》
マタイによる福音書 1:1~17
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、…ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 (マタイによる福音書1:1-2、16)
今日から、アドヴェントです。教会の暦では、アドヴェントから新しい年が始ります。そして、今日は、新約聖書の最初のページを開きました。ここから新しい救いの歴史が始まります。神は、イエス・キリストを新しい救いの歴史の始まりとされたのです。新しい救いの歴史となるイエス・キリストを、マタイによる福音書は、アブラハムの子、ダビデの子として紹介しています。アブラハムは、信仰の父、祝福の源として、ダビデはイスラエルの王として、救いの歴史の重要な部分を担いました。そして、アブラハムとダビデだけでなく、ここに名前が挙げられる人たちは、確かに救いの歴史を担った一人一人なのです。
イエス・キリストの系図には、多くの名前が挙げられています。しかし、この系図は、少しいびつなところがあります。イエス・キリストの系図には、「〇〇をもうけた」というところに「タマルによって」「ラハブによって」「ルツによって」「ウリヤの妻によって」と記されています。異邦人の女性たちです。神の救いの担い手は、ユダヤ人の男性であると考えられていましたが、神は、四人の女性たちを用いて、救いの歴史を導かれて来たのです。ウリヤの妻は、バト・シェバですが、あえて「ウリヤの妻」(サムエル下11:17、12:1-15)と書いているのです。これは、預言者ナタンを通して、ダビデが神の前に犯した罪と自覚したことです。
ダビデが生きたということを聖書は排除していません。むしろ、罪を犯したダビデを神の救いに織り込んでいるのです。この歴史には、罪がある、他人に痛みを与え、自己嫌悪に陥るような現実がある。 その歴史の中に、イエス・キリストが、お生まれになる。罪の現実がある歴史の中で、救い主になられるお方がイエス・キリストであると語るのです。
私たちにも、取り除きたいと思う過去、取り返しのつかないと思えること、歪であるとしか言い得ない罪があります。罪の歴史に生まれ、わたしたちが犯した罪は、その時には、その選択しかできなかったものです。もし罪の部分を取り除いたら、人格を失ったロボットのように生きるしかできません。私たちの人生において、罪の現実の一部分だけを、自分の人生からきれいに取り除くということなどできません。だから私たちには、救い主が必要です。
罪の歴史の中で生まれ、自らも罪を犯し、なお生きる者に、神は、イエス・キリストを与えくださいました。「あなた」という人格が失われない仕方で、神と共に生きることができる歴史を神は始めました。あなたの救い主が、おいでくださいました。あなたにしか生きることができない人生、あなたによって繋がれる新しい救いの歴史があります。罪を赦してくださるキリストと共に生きよ、あなたを赦し、救ってくださる方と共に救いの歴史につながる一人として生きよ、と主は招かれます。
【祈り】十字架と復活の主イエス・キリストの父なる神さま。イエス・キリストは、罪の歴史の中に、罪の現実に生きるわたしたちに救いをもたらすために来てくださいました。私たちには、救い主が必要です。世界は、救いを求めています。主よ、どうか、赦しをもたらし、救いを実現してくださるあなたと共に、救いの歴史を担う一人として、私たちを用いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2024年12月1日アドヴェント第一主日 橋本いずみ)