2024年4月28日 主日礼拝説教

《 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら 》

エレミヤ書 32:36~44、ヘブライ人への手紙 12:1~3

「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。」(エレミヤ32:37-40)

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで、十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。                               (ヘブライ12:1-3)

 今年度の年主題「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」を取り上げて、今日は御言葉を聞きます。自分の前にあるレースを走り抜こう!と進めています。運動会や体育祭、駅伝、陸上大会やオリンピックなどで、声援に包まれて走る人を一度は見たことがあると思います。わたしたちが地上で信仰をもって生きるということは、多くの信仰者たちに見守られ、声援を受けて、イエスさまを見つめて走るようなものだというのです。信仰をもって生きることは、わたしたちが命を自分の意思で作り出して、生きるようになったのではないのと同じように、与えられたものです。イエスさまが、わたしたちを選んでくださって、信仰の先達を立て、そのバトンを受け継ぐようにして、わたしたちは信仰の道に導かれました。信仰の創始者は、イエス・キリストです。このお方が先頭に走っていて、その後を追いかけるようにして、すべての信仰者たちは、与えられたところを、走り続け、わたしたちは、この時代、信仰のバトンを引き継いで走っています。

この世で信仰をもって生きるということは、苦闘や疲れがつきもののようです。ですから、もしキリスト者になって悩み、疲れている人がいても心配する必要はありません。

罪人であったことと聖なる者とされていること、この狭間で罪との戦い、忠実であろうとするときにわたしたちは苦闘し、疲れるのです。主イエス・キリストを見つめながら走り続けることー信仰に参与することは、献身ですから、犠牲を伴います。

苦闘し、疲れている者たちが、意気阻喪し続けることがないように、疲れ切ってしまわないようにと、御言葉は励ましを与えています。信仰の創始者完成者である主イエスから目を逸らしてはならない。主は、自分の前に置かれていた喜びのゆえに、十字架を耐え忍び、神の御座の右に着かれました。このお方から目を離してはならないと。さらに、罪人たちによる反抗を耐え忍ばれた主イエスをじっと考察しなさい、と。

信仰をもって走り、悩み、疲れてしまったときは、イエスさまをしっかりと見つめることです。主は、わたしたちに永遠の命の道を与えるために、恥をも厭わず十字架にかかってくださった救い主です。

  《祈り》 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神さま、十字架で命を捧げてくださり、永遠の命に至る道を開いてくださいました。イエスさまがこの地で歩んだ姿をお手本に、与えられた道を走り抜くことができるように力付けていてください。主が大きな犠牲をはらってくださって、今の私たちがあります。あなたが用意してくださっている喜びをとても楽しみにしています。大胆にあなたに献げて歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。            (2024年4月28日  橋本いずみ)