2024年4月7日 主日礼拝

詩編 118:1~12

ヨハネによる福音書 21:15~19

恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間が何をなしえよう。主はわたしの味方、助けとなって、わたしを憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。           

 (詩編118:1-9)

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

(ヨハネ21:15-18)

復活の主は「わたしを愛しているか?」と繰り返し、問われます。復活の主と共に歩む者に、主は「わたしを愛しているか」と問われます。キリストの十字架と復活を知った者たちは、この問いに答えなければならないと思います。父なる神さまは、御子をお与えになるほどに世を愛し(3:16)、御子イエス・キリストは、この上なく愛し抜かれました(13:1)。そして、新しい掟として、互いに愛し合うことをお教えになります(13:34)。「わたしを愛しているか?」との主の言葉は、主を愛することができないものに対して、主の愛に答えて主を愛して生きる道を開くものです。

三度と問われる主は、主の愛に答えるのを待っています。主はペトロのことが、分からなくて、その気持ちも分からなくて、不安になって、問うているのではなく、ペトロのことは、その心の中まで分かっていて、しかも、どのような人生を歩むのかよくご存知で、問われるのです。

この問いがなければ、この後のペトロの人生が開かれることなく、永遠の命に生きることはできないからです。

十字架で命を献げて、愛し尽くしてくださる方の「わたしを愛しているか?」との問いは、羅針盤のようなもので、わたしたちがどこを目指しているのかを明らかにしてくれるものだと思います。

ペトロは、主の問いに「わたしがあなたを愛していることをあなたが知っている」と答えています。わたしが感じたり、思ったり、考えたり、願ったりすることよりも、より確かなのは、あなたがわたしを知っていることだと答えているのです。

主は、主の羊を飼うようにと命じられました。わたしたちは、自分を、愛するのではなく、主を愛します。わたしたちのものではなく、主のものを求めます。

わたしたちが、自分を一番に愛そうとする時、それは、失われていきます。主を愛することを第一とする時に、永遠の命に至る道がひらかれます。「わたしを愛しているか」と問われたペトロは、主がわたしを愛し尽くしてくださるところに立ち、どのようにして死ぬのかということが告げられても、恐れて逃げ出しはしませんでした。死から命に至る道が、主によって開かれたからです。

《祈り》 

十字架と復活の主イエス・キリストの父なる神さま。主が十字架で命をささげてくださり、よみがえり、永遠の命に至る道が開かれました。あなたは何もかもご存知です。わたしたちの過去の過ちや失敗も、今のこだわりやつまずきも、未来の姿も、あなたは、知っておられます。天の父に通じる永遠の命の道を歩むことができるように導いてください。主の御名によって祈ります。

アーメン。

(2024年4月7日  橋本いずみ)