《多くの子たちを栄光へ導くために 》
イザヤ書 8:16~23a
ヘブライ人への手紙 2:10~16
わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは彼に望みをかける。
見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。 (イザヤ8:17−18)
と言うのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちもすべて一つの源から出ているのです。…ところで子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。(ヘブライ2:10-13a)
神さまは、わたしたちを御子イエス・キリストにあって、子としてくださいました。キリストに与えられた栄光と同じ栄光にわたしたちを導くためです。イエスさまは、すべての人のために死を味わってくださり、神にあって子とされる多くの人を栄光へと導くために、苦しみを受けてくださいました。
今日の聖書の箇所は、「ふさわしい(適切である、ピッタリであった)」という言葉から始まります。御子の完全さは、どこに現れるかというと、苦しみを受けることによってです。受難こそが、救いの創始者、万物の目標であり、源である方の最もふさわしい姿であったというのです。
聖書の中にヨブ記という書がありますが、人間が受ける苦しみを、つぶさに語ります。ヨブは、正しい人でしたが、ある日、家畜などの全財産を失い、息子や娘たちを失い、自身は皮膚病になって健康を失います。サタンは「皮には皮を、と申します。まして命のためなら全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の肉と骨に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」と神さまに言っています。妻は、「神を呪って死ぬほうがましでしょう」いいと言い、お見舞いにやってきた三人の友人たちは、ヨブの激しい苦痛を見て話しかけることもできませんでした。結局、ヨブは自分の苦しみをどうすることもできず、妻や友人も、彼の苦しみを理解することはできませんでした。
イエスさまは、ヨブと同じように苦しみます。苦難の中にあっても変わることなく、従順であり続けました。
イエスさまは、苦難の道を歩まれました。絶えず、父なる神さまに服従するのが、どんなに難しいことかを知っておられます。サタンが言ったように、神を呪うのは簡単、妻が言うように、そんなに苦しいのであれば、呪って死んだほうがいい。痛みを負いながら、悲しみを負いながら、生きる苦しみを主は知っておられます。
イエスさまの苦しみは、わたしたち人間の受ける苦しみに光を当てます。神さまの愛は、イエスさまの苦しみの中で貫かれていきました。その苦しみの極みで、神の栄光と愛を示してくださいました。ですから、神の子たちに対する神さまの愛も、あらゆる苦難に抗して戦うことではなく、その苦難の只中にあって、神の子とされる者たちを守ってくださいます。イエスさまがあなたの苦しみを一緒に苦しんで、その苦しみの極みにおいて、栄光を示してくださいます。
ヘブライ人への手紙は、三つの言葉(詩編22.23、イザヤ8.17、18)を引用し、イエスさまが兄弟となってくださって、神の子の一人にわたしたちを招いてくださっていることを示しています。キリスト者は、キリストによって聖なる者、神の子とされました。キリストとキリスト者は、一つのものから発して、一つのものを創り上げていきます。多くの子たちを栄光へ導くために、主が今日もわたしたちの苦しみを負ってくださっています。
【祈り】
天の父なる神さま。あなたは、御子イエス・キリストの苦しみの極みにおいて、あなたの愛と栄光を示してくださいました。キリストがわたしたちの苦しみを負っていてくださることを感謝します。主よ、わたしたちが負うべき重荷を担い、キリストの苦しみとキリストの栄光に与かる者とならせてください。救いを完成するために働かれるあなたに仕える者とならせてください。主の御名によって祈ります。 アーメン。 (2024年6月30日 橋本いずみ)