《 偉大な大祭司イエス・キリスト 》
詩編 2:7~9
ヘブライ人への手紙 5:1~10
「お前はわたしの子、今日わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩2:7b-9)
同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の箇所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力ある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全なものとなられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
(ヘブ5:5-10)
主イエス・キリストは、わたしたちの贖いがなされる恵みの座へと、わたしたちの悲しみと率直な祈りを持ち運んでくださる大祭司です。
大祭司は、神と罪ある人の仲介者として、人々の感謝と悔い改めのしるしである供え物と犠牲(奥深い秘事:罪、罪責感、恐れ、望み、渇望)を預かり、受け取って神のもとに運び、神による贖いの福音もって戻ってきました。これを、繰り返して神の民は、神とともに歩んできました。祭司も罪ある人間なので、自分の罪のためにも、犠牲をささげて、その務めに当たっていました。彼らも同じ罪人ですから、自らの弱さや失敗によって狼狽える罪ある人に共感し、思いやることができました。
神と人との仲介者となり、人々のために神に仕えるものとされるのは、誉れあることでした。しかし、この誉ある務めは、アロンがそうであったように、神の召しによるものです。かつての神の民において、アロンが神に召され
て、祭司となって、その家系で受け継がれていったように、御子イエス・キリストが大祭司となられたのも、神に召された(呼ばれた)からでした。
神の御子イエス・キリストは、本当に人間になって、神の召しを受けて、大祭司になってくださいました。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら神に祈られました(マタイ26:36-46、マタイ27:46、ルカ23:34)。主がこの地において、悲しみ、涙ながらに祈られた祈りは、神への従順に生きるためのご自身の祈りであり、すべての人のための祈りです。
主は、苦難を受けられました。苦しみ、制限、弱さは、罪ではなく、それらを持っているというのが人間であるということです。イエスさまは苦しみによって、絶望し神に反逆したのではなく、従順を学び、神を畏れ敬う心が深化したのです。イエスさまは、苦しみの只中で神の子であることを、決して忘れてはおられません。主イエス・キリストの従順が、主に従順なものたちを生み出し、彼らに対して、永遠の救いの源となりました。
神の御子イエス・キリストは、神の子であることの真実を見失ってしまっている者たちを、思いやりその手を取って、恵みの座へと導かれます。
【祈り】
天の父なる神さま、あなたが今日も、わたしたちのために恵みの座へと招いてくださり感謝します。主イエス・キリストによって、畏れつつも大胆に恵みの座へと進み出ます。主よ、弱さと制限がある日々にあって、苦しみと涙するとき、神の子とされたことを喜びつつ、主への従順を学ばせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2024年9月1日 聖餐式 橋本いずみ)