《 初歩的な教えから成熟を目指して》
ヨエル書 2:12〜17
ヘブライ人への手紙 5:11~6:3
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく。お前たちの心を引き裂け」(ヨエル2:12)
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなた方は今ではもう教師になっているはずなのに、再び誰かに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいるものはだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚の経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
だから、わたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。(ヘブライ5:11-6:3)
「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」と言っています。このこととは、イエス・キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることです。耳が鈍くなっているもの、乳を必要とするもの、神の言葉・キリストの教えの初歩、基本的な教えを繰り返し教えてもらうところに留まっているものには、このことを説明するのは難しい。霊的に成熟したものとなるようにとの勧めがなされます。
基本的な教え、キリストの教えの初歩について、「死んだ行いの悔い改め」「神への信仰」、「種々の洗礼についての教え」、「手を置く儀式」、「死者の復活」、「永遠の審判」六つのことが挙げられています。初代教会の教理の大筋です。教会は、信仰者の群れですけれども、なんでも信じていればいいというわけではありません。イエスさまを救い主として信じた者たちは、神の救いの計画の中で生きていきますが、それをまとめたものを教理と言います。
神の言葉の初歩、基本的な教え、キリストの教えの初歩というのは、確かに信仰の初め、教えられる必要があることですが、それが到達点ではありません。「今ではもう教師になっているはず」と言われるように、基本的な教えは、イエス・キリストを信じたものたちは、次の誰かに教えることができるようなことです。初歩を繰り返し教えてもらうことにとどまっているものたちに、幼子であることを捨てて、成熟したものへと進んでいくことを求めています(Ⅰコリント13:11)。
信仰的に大人であるということは、どういうことでしょうか。「善悪を見分ける感覚の経験によって訓練されている」「義の言葉に通じている」ということです。信仰の感覚は、は、実践を通して訓練されて身につけていくものです。あらゆる場面で、初歩的な教えをもとに、キリストを信じるという実践です。それは、訓練という言葉で表現されているように、なんとなく過ごしていれば身につくというものではありません。わたしたちの耳は怠けて鈍くなり、何度も誰かから基本を教えてもらわなければならない状態になってしまいます。
この実践は、義の言葉である福音の真実を知らされていくものです。キリストの贖いによって与えられている神と正しい関係は、人格的な関係であり、信仰に始まり、信仰に進ませます。
基本的な教えから、成熟を目指して進みましょう。
【祈り】
天の父なる神さま。主イエス・キリストが十字架にかかり復活し、わたしたちを罪の支配から贖い出してくださいました。主が再び来られ、御国が完成されるときを思い起こしつつ、死んだ行いを悔い改め、神への信仰に生きるものとならせてください。神の国を来らせてください。神の義をあらわしてください。そして、永遠にほめたたえられるあなたの栄光を仰がせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2024年9月8日 橋本いずみ)