《 キリストは再び来てくださる 》
創世記 3:17~19
ヘブライ人への手紙 9:23~28
ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身をささげられた後、二度目には罪を負うためではなくご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださるのです。(ヘブライ人への手紙9:26b―28)
人間の定め。人は、皆、死ぬということ。世間には、いろんな死生観があると思いますが、聖書が私たちに教えるのは、命は神が造られたものであるということと、わたしたちはやがて死ぬということです。生きるのも死ぬのもただ一度きりだということです。わたしたちの命は、神さまからの賜物で、一度きりのものですし、どんなに願っても誰かと交換することはできません。ありふれた日常にも、一度きりのことが、溢れているようにも思えます。そう思うと一瞬一瞬がとても、尊いもので、感謝して受け止めなければならないと感じます。
今日読んだ聖書の箇所では、「人間にはただ一度死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっている」と死ぬだけでなく、裁きを受けることが定められていると告げています。死んで終わりではない。裁きを受ける。最後の審判がくだされる。
わたしたちの死の一回性とキリストの死の一回性。どちらも、一回限りの死であるということでは、同じですが、その意味は違います。わたしたちが死ぬのは、自らの罪ゆえですが、キリストは、多くの人の罪を負うために、死なれました。
かつて、キリストが、この世に生まれ、現れてくださって、死なれたのは、人の罪を負うためです。人が負うべき神の怒りをご自身に引き受け、罪を負うためです。そして、
キリストがもう一度おいでになるのは、同じ目的のためではないというのです。キリストの十字架の死で罪の赦しは成し遂げられているので、もう一度罪を負うために来られるのではない。一度おいでくださったその時に、わたしたちの罪、人の罪は、もう完全に負い切ってくださいました。イエスさまの死によって、罪の力は敗北した。ですから、もう一度キリストが来られる目的は、罪を罰するためではありません。人間が死んで受けるべき裁きからの救いのために来られるのです。わたしたちが死んで裁きを受ける時、罪ゆえに罰せられるということはない。キリストがもう一度来られて、明らかにされることは、神が私たちを愛してくださったということ、神がわたしたちの愛―それは、本当に拙い愛かもしれませんがーそれを受け取ってくださったかということです。キリストによって罪赦されて、神と共に生きたということを、神さまは喜んでくださるにちがいありません。わたしたちは、キリストがもう一度来てくださるのを待ち望みます。
【祈り】父なる神さま。キリストが、わたしたちの罪を負ってくださって、神さまと共に歩む道を開いてくださいました。罪ゆえに自分に与えられた命に絶望することもありますが、そこにキリストの光が注がれて、神さまとともに生きる道が開かれていくと信じます。罪赦されてもなお解決できない問題を抱えながら生きる私たちを救うために、主がおいでくださるのを待ち望みます。キリストが再び来てくださる時、あなたと共に生きた日々を、振り返る時が来ることを待ち望みます。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2025年1月12日 橋本いずみ)