2025年1月19日 主日礼拝説教

キリストの献身により聖なる者とされる

詩編 40:6~12

ヘブライ人への手紙 10:1~18

ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、ついで「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

(ヘブライ人への手紙10:8-10)

神の御子イエスさまは、この地上で体を与えられて生きてくださいました。イエス・キリストの言葉として、詩編40編が引用されています。体を献げることが、神さまが御子イエス・キリストに体を与えた目的であり。イエスさまが人となられた目的でした。

旧約においては、雄牛や雄山羊などのいけにえが献げられることで、清められて、聖なる者として歩むことができると考えられていました。しかし、このような礼拝の仕方によって、神の民は、聖なる者として歩むことはできませんでした。聖なる者とされているということではなく、罪の自覚と罪の記憶がよみがえってきていたのです。自らの罪を自覚するということは、時に大切なことですが、もし、わたしたちが、キリストにあって聖なる者とされているということよりも、罪の自覚や罪の記憶ばかりに、気が取られているとするならば、古い約束を生きているようなものなのかもしれません。

わたしたちが、自覚しなければならないのは、キリストにあって罪が赦されて今があるということです。キリストが体をもって生き、その命をささげてくださったことによって、神との交わりに生きることができるようになっている。自分の人生のそのすべてが神の眼差しの中に置かれていて、そこには、もちろん神さまを悲しませたり、がっか

りさせたりするような言葉と行いと思いがあるに違いないのですが、神さまは、イエス・キリストが命を献げられたそのことをもって、もう私たちの過去を問わない、それを思い起こして罰を与えることはないということです。

罪は、戦争や格差、飢えや孤独、怒りや絶望、そして、死に現れ出てきます。日々、直面する悪の力による罪の現実は、時に、私たちの人生を翻弄し、神の働きを見えにくくし、命をささげて世を救うキリストの姿を忘れさせようとします。そして、罪の現実に対して、自分一人の力で抵抗しようとしても、できないものです。しかし、聖書がわたしたちに教えてくれているのは、あなたの罪は赦されているということと、わたしたちにはどうしようもない罪の現実も、やがてキリストの足台になるということです。自分一人では解決できなかったとしても、キリストとともに乗り越えていく道があるかもしれないし、終わりの時には、必ずキリストが勝利してくださいます。このことを信じて歩む生き方は、やはり特別な聖なる者としての生き方だと思うのです。神さまは、キリストに体を与え、キリストがその体を献げてくださって、この特別な生き方へと招かれました。

【祈り】天の父なる神さま。イエスさまがこの地に生きてくださって、ご自身の体を献げてくださり、わたしたちを神さまにとって特別な存在としてくださったことに感謝します。私たちの生きるすべての時が、神さまの眼差しの中に置かれており、やがてわたしたちを悩ませる悪の力もキリストの足台となるのをキリスト共に私たちも待っています。キリストが主の御名によって祈ります。アーメン。 (2025年1月19日 橋本いずみ)