2022年3月13日 主日礼拝説教

《  慰めの共同体 

ヨハネによる福音書 11:17~45

さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。…マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。…人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞き入れてくださることをわたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから。「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。すると死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。       (ヨハネ11:17,19,41-45)

今日は教会創立75周年記念礼拝です。この教会は、戦後、祈りの交わりに人々が招かれてきたことによって設立しました。この教会の始まりを思う時、この地に戦争があったこと、その終焉によって教会が立てられたということを思い起こさずにはいられません。

この数週間、毎日、戦争のニュースを毎日見聞きするようになりました。攻め入る国や人々も、攻められる国も人々も、またその近隣の国や人々も、遠くにいる国や人々も、皆、善を望みながらも、望まない悪を行なっています。「善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気がつきます。」(ローマ7:21)と述べられた法則は、すべての人に当てはまるものです。この法則に生きるものは、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)と言うことしかできないのでしょうか。

今日読んだ聖書の箇所には、死に定められたラザロ、その姉妹たちマルタとマリア、そして、この家族を取り巻く人々、共同体がありました。ラザロだけでなく、誰もが、死に定められた者でしたが、当事者となるのはラザロとその姉妹たちで、彼らに向かって語る言葉もありますが、取り巻く人々もご覧になり、命じていることがあります。

ラザロが死んでイエスさまが来るまでの間に、すでに彼らは、慰めのために集まっていました。彼らは、善意ある人々で、マリアが泣く時、他人事だとは思わず、同じ思いになって一緒に泣く人たちでした。彼らはそこで、イエスさまが、どれほどラザロを愛しておられたかということを知りました。しかし、一方で、「ラザロが死なないようにはできなかったのか」と、死に圧倒され、イエスさまが何かをなされると思っていません。

イエスさまは、取り巻きの人々に二つのことを命じました。

イエスさまが「取りのけよ」と言われた石は、死に定められた者を完全に封じるもので、誰もこの石を取り除けることはできないし、命じられてもためらうようなことです。イエスさまが復活された時、墓を塞いでいた大きな石は、取り除けられていました(ヨハネ20:1)。イエスさまの復活によって、生と死を分け隔てる石は、取りのけられます。

二つ目は、「ほどいてやりなさい」ということです。死の苦しみから解放(使徒2:24)し、罪の縄目をほどき、赦すことです(マタイ16:19,18:18、ヨハネ20:23)。イエスさまは、死に定められた者に語りかけて、呼び起こしてくださいます。死に定められた者は、取り巻きの人々に縄目を解いてもらって、自由にさせられていくのです。

キリストを死者の中から復活させた方は、霊によって死ぬはずの体を生かしてくださいます。わたしたちは、忍耐して神の栄光があらわされるのを待ち望みます。

《祈り》 天の父なる神さま、あなたは死に定められたわたしたちのところに、御子イエス・キリストを使わしてくださいました。イエスさまの復活によって、生と死を隔てていた大きな石が取り除かれ、死すべき私たちに光が注がれていることを感謝します。主よ、人々に命じたように、石を取りのけ、罪の縄目を解く働きへと私たちを送り出してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2022年3月13日 受難節第二主日 創立記念礼拝 橋本いずみ)