2025年4月13日 主日礼拝説教

《 今日わたしと一緒に 》

ルカによる福音書 23:32~43

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も一人は右に一人は左に十字架につけた。…十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

(ルカ 23:33,39〜43)

教会の暦で今日は、棕櫚の主日、今週は受難週です。十字架のキリストを思い起こして、この時を過ごします。

イエスさまが十字架につけられたとき、そのもとには、イエスさまを十字架につけ、くじを引いて服を分けあう人々、立って見つめている民衆、あざ笑う議員たち、侮辱する兵士たちがいました。そして、十字架につけられた二人の犯罪人がいました。この中のどこかに、自らの姿を見出すかもしれません。イエスさまは、彼らの只中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と父なる神さまに向かって祈っています。

イエスさまが十字架は、ユダヤ人の議員たちには、あざ笑われ、ローマの兵士たちには侮辱され、一緒に十字架につけられた者の一人にもののしられています。彼らは、イエスさまに「自分を救え」と同じことを言っています。イエスさまに向かって「自分を救え」と言うことが、イエスさまを侮辱し、神を畏れないことです。

そして彼らは、「もし神からのメシアで選ばれたものなら」「お前がユダヤ人の王なら」「お前はメシアではないか」と言っています。議員たちは、イエスさまは、他人を救ったと認めています。

王であるなら、まず自分を救うだろう、神さまも、神の義が表されるために、人を犠牲にするのは当然のことだろうと思っていた。この世界で見る王や支配者から、類推するならば、王というのは国を守るために犠牲が出ることは仕方のないことだと考えるかもしれません。そのような王や指導者の姿から、イエスさまが王であるならば、「自分を救え」と言うことが、神を畏れていない、イエスさまを侮辱している。神は、人を犠牲にして自らの義を表すような神ではない、そういう仕方で、神の義を表さない。むしろ、神が「自分」か「人」かを問われるならば、「自分」が犠牲になって、「人」が生きることを選ばれる神なんだということを、イエスさまの人格を通して、十字架を通して明らかにしてくださいました。

自分の行ったことの当然の報いを受けて、今、死の際にいる者に、イエスさまは「あなたは、今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。イエスさまがともにおられるところに、私たちが安らぎ生きることのできるところがあります。

《祈り》

十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまの十字架をとおして、あなたが造られた命に責任をもってくださり、あなたがわたしたちを愛し抜かれる神であることを知りました。死の際に生きるような私たちですけれども、どうかイエスさまが一緒にいてくださる今日を生きるものとならせてください。あなたの愛のしるしである十字架を仰ぎ見つつ、十字架のキリストを宣べ伝えさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2025年4月13日 棕梠の主日橋本いずみ)