2025年4月20日 主日礼拝説教

《 主イエスは共に 》

ルカによる福音書 24:13~35

今日は主の復活を祝うイースターです。イエス・キリストの復活をなぜわたしたちは祝うのか。それは、復活したイエスさまが一緒にいてくださることが、分かることが、主の弟子たちの歩む方向を変え、わたしたちの向きを変えるからです。

今日読んだ聖書の箇所は、復活のイエスさまが、クレオパともう一人の弟子が歩いているところに近づいて来られて、一緒に歩いてくださいます。彼らの目は遮られていて、イエスさまだとはわかりません。イエスさまは、彼らに問いかけ、彼らの話を聞き、物分かりが悪い、心が鈍いと言いながらも、聖書全体にわたってご自分について書いてあるということを説明してくださいます。イエスさまは、こんなにしてくださっていますが、彼らは、まだイエスさまだと分かりません。彼らは、イエスさまに一緒にとどまって欲しいと願い、イエスさまは、一緒に家に入って泊まってくださいました。イエスさまがパンを裂いて渡されたところで、彼らの目は開けて、イエスさまだと分かりました。それなのに、その姿は見えなくなったと言います。不思議な話だなと思います。目で見えているときにはイエスさまだと分からない、イエスさまだと分かったらその姿は見えなくなる。

クレオパともう一人の弟子が、イエスさまだと分からなかったのは、彼らの目が遮られていたからで、彼らがイエスさまだと分かったのは、目が開かれたからだと聖書は告げています。遮られていたというは、「(力づくで)掴まれている」という意味があります(使徒2:24)。イエスさまの死を通して、彼らは死に掴まえられてしまっていた。弟子たちは暗い表情でこのことを話し、イエスさまが問いかけ、一緒に歩いてくださって、聖書を説明してくださっているのに、分からなかったのです。固定概念や偏見や思い込みが事柄を見えなくするということは、わたしたちの生活でもよくあることだと思います。弟子たちは、死にとらえられていた。それは、わたしたち今生きているものもいずれ死ぬことを考えると、すべての人が死に力づくで掴まれているのかもしれません。しかし、イエ

スさまは、死に支配されたままではなく、復活されました。死にとらえられていた弟子たちに近づいてきて、苦しみを受けて栄光に入る道が開かれたこと、死の先に命があることを、聖書から教えてくださいました。

イエスさまは、クレオパともう一人の弟子が一緒にいて、話し合い(人間同士の言葉を介したコミュニケーション)、論じ合う(熟考する、共に探求する、意見を述べ合う)ところに近づいてきて一緒に歩いてくださいました。ですから、イエスさまのことを話しているときに、目に見えなくても、イエスさまは一緒に歩いてくださっているとわたしたちは信じることができるし、イエスさまが一緒にいてくださることを知らされたものは、自分の目的地ではなく、神さまが導いてくださる方向、命に向かう道へと向きを変えていきます。イエスさまが復活されたと信じるものたちを、イエスさまと一緒に導き出してくださいます。

《祈り》

復活の主イエス・キリストの父なる神さま。復活の主が私たちに近づいてきてくださって、今日も、イエスさまご自身のことを、教えてくださって、ありがとうございます。わたしたち思い込みにとらわれて見えなくなっていることがありましたら、主が、聖書を通して命の道が開かれることを教え、イエスさまが命をささげてくださったことを思い出させてください。復活のイエスさまが共に歩んでくださるので、今日も、新たな力と励まし、慰めと希望をいただきました。どうか、神さまが導こうとされる方向に向かって歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2025年4月20日 イースター 橋本いずみ)