《 信仰によって、祝福を祈る 》
ヘブライ人への手紙 11:17~19
信仰によってイサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖に寄りかかって神を礼拝しました。
(ヘブライ11:20-21)
今日読んだ聖書の箇所には、イサクとヤコブが登場しています。彼らも、信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストを待ち望みつつ、信仰によって生き、死んだ人の一人です。彼らは、信仰によって、祝福しました。イサクは、双子の息子ヤコブとエサウを(創世記27章)、ヤコブは、ヨセフの二人の息子(ヤコブからすれば孫にあたる)エフライムとマナセを祝福しました(創世記48章)。
イサクとヤコブが祝福したところには、いくつかの共通点があります。一つは、イサクもヤコブも、高齢になって目が見えなくなっているときに、祝福したということです。もう一つは、親から子へと受け継がれていく祝福は、本来、長子が受け継いでいくものであると考えられていましたが、創世記を見ると弟のヤコブと弟のエフライムが、長子が受け継ぐ祝福を受けたということです。
これを、ヘブライ人への手紙は、11:20-21のように書き記しました。イサクも、ヤコブも、老齢になって目は見えなくなっていました。イサクは、この世のことは何も見えなくなって手探りでしか誰がいるのかもわからなくなっている時に、来たるべきことについて、祝福しました。来たるべきことがある。神によってもたらされることを、二人の息子たちに告げたのです。イサクもヤコブも、目は霞んで見えなくなっていましたが、神の祝福の約束によるビジョンを失ってはいませんでした。だからこそ、イサクは、将来のことについて、二人の息子たちを、祝福したのです。
ヤコブは、死ぬ時に、ヨセフの息子たちを祝福し、杖に寄りかかって、神を礼拝した。自らの力では立つことができないときに、杖を頼りにして、礼拝しました。杖というのは、「公正の笏、御国の笏」(ヘブライ人1:9)と言われているものです。ヤコブは、神が世界の王として公正に、治められることを、頼りに寄りかかって、礼拝をしました。
わたしたちは、祝福を受け継ぐようにと召された。神の祝福の系図の中に置かれている。第一に、神に、祝福されていることを受け止める。そして、祝福を受け取ったものたちは、誰かを祝福するものになるということです。
祝福を受け継ぐ者とされたということは、この世界を祝福するようにと召されたということです。その時に頼りになるのは、私たちの贖いのために十字架で命を献げ尽くしてくださった御子がこの世を治められることです。
ヘブライ人への手紙は、イサクは、ヤコブもエサウも祝福した。ヤコブは、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福したと言っています。一方は祝福され、一方は呪われたとは、告げていない。神の祝福の約束によるビジョンによって、どちらも、祝福しました。イエス・キリストによって神は私たちを祝福を受け継ぐものにしてくださいました。それゆえ、わたしたちは、私たちの家族を、友人を、この世界を、祝福します。
《祈り》
主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまによって、祝福を受け継ぐ者とされたことを、感謝と畏れをもって受け止めます。十字架と復活の主が、今日も世界を治めていてください。主の御支配により頼みつつ、神さまの祝福を告げる者とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2025年5月11日 橋本いずみ)