《 信仰によって、臨終の時に 》
ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時には、わたしの骨をここから携えて上ってください。」 (創世記50:24-25)
信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。 (ヘブライ11:22)
死がすべての終わりだと感じている人は、多いかもしれません。ヨセフは、死に直面しても、自らの死をすべてのことの終わりとは、見ませんでした。ヨセフは、間も無く自分は死ぬということを受け止め、神さまの与えられる将来を仰ぎ見て、言葉を遺しました。
死の間際あって、神さまの約束を希望し、神の約束は、必ずその通りになると信じて、兄弟たちに語ったのでした。ヘブライ人の手紙11章に名前が挙げられている人たちは、望んでいる事柄(神の約束)を確信し、見えない事実(神が約束の実現のために働き続けてくださっていること)を確認しつつ、それぞれの人生を歩みました。わたしたちのどの時も、信仰によって守られているものですが、その中でも、信仰が明らかにされる時があります。ヨセフにとっては、死ぬ時が信仰によって生かされていることが明らかにされる時でした。
死に直面する時に、何によって生かされているかが明らかにされるということは、ヨセフだけではありません。生きているということは、いつだって死と隣り合わせであると言えると思います。今日の命は、決して当たり前のものではありません。
ヨセフが、思い起こしたとは、人生の過去の出来事ではありませんでした。ヨセフは、むしろ、将来のこと、イスラエルの脱出について語り(思い起こした)のです。
神が、アブラハム、イサク、ヤコブに約束してくださっている将来を思い出して、語りました。思い起こすというのは、(ヘブライ11:15「思っていた」13:7「思い起こしなさい」)普通は、過去のことであるはずなのですが、ヨセフは、イスラエルの脱出という、将来のことを思い起こしたのです。
イスラエルの脱出。ヤコブが、イスラエルと呼ばれるようになるとき、祝福されます(創世記32:29-31、35:10)。イスラエル(神によって選ばれ祝福された契約の民)が、エジプトの国、奴隷の家から導き出されて、神が約束された地を受け継ぐことを、そして、神は、必ず顧みてくださることを、告げたのです。
ヨセフは、神の民の一員として、約束の地に、自分も導き入れられることを、確信して、この地上の生涯を終えました。
わたしたちは、イエス・キリストによって、永遠の財産を受け継ぐものとされた者とされました。イエスさまの救いと言葉を思い起こし、神の与えられる将来を思い起こします。
《祈り》
主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまを知らない時、私たちは、死には絶望しかなく、すべての終わりだと思っていました。けれども、人生の終わりに、希望のうちに自らを委ねることができることを知り、感謝します。イエス・キリストによって、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐものとされていることを、あらゆる場面で、喜びをもって語り継ぐものとならせてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。
(2025年5月18日 橋本いずみ)