2025年5月25日 主日礼拝説教

《 信仰によって、モーセは 》

信仰によって、モーセは生まれてから三ヶ月間両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人した時、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。                 (ヘブライ11:23-26)

神の民にモーセという人がいました。主の僕、モーセのような預言者は現れなかった(申34:5,10)と言われます。モーセは、イスラエルがエジプトで非常に厳しい状況に置かれている時に生まれました。

イスラエルの人々が、増大していくがゆえに、エジプトの王ファラオにとっては、脅威に思え、過酷な労働を課しました。それでも、イスラエルの人々は力を増していくので、やがて、自分たちの国が乗っ取られてしまうのではないかと心配になって、ファラオは「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命じました。

モーセの両親は、モーセが生まれて三か月間、隠していましたが、隠しきれなくなり、防水したカゴの中に入れて、ナイル川のほとりに置きました。ファラオの娘がそれを見つけたところに、モーセの姉が「乳母を呼んできましょうか」と声をかけ、モーセは実母のもとでしばらく過ごした後、大きくなってからは、王女の子として育ちました。

モーセの両親は、この子の美しさを見て、それはただ可愛かったというのではなくて、神の前にある美しさを見て(使徒7.20)三か月の間、隠しました。それは信仰によってなされたと、ヘブライ人への手紙は語っています。神への信頼がなかったならば、王の命令を恐れて、それに従ったでしょう。しかし、モーセの両親は、神の御前にある子の姿を見て、王の命令を恐れずに、その子を隠して、生かす道を選びました。私たちの日常生活に、王の命令が下されるということはありませんが、世間の声や常識でこうしなければならないと思うことが、神の御前にある人の美しさを殺してしまっているということがあるように感じます。

モーセは、成人したとき、信仰によって、神の民と共に苦しむことを選びました。ファラオの王女の子として一時的な罪の楽しみに生き続けることもできたでしょうが、それを拒否し(マルコ14:30)、神の民と共に苦しむことを選びました。イエス・キリストが歩まれるのと同じ道を信仰によってモーセは、選んだのです。

キリストは、わたしたちと共に苦しむことを選ばれた。人の苦しみは、希望を持てないところから生じていると思います。希望が持てないのは、全能の神との関係が断絶しているからです。この断絶は、罪ゆえのことです。

イエスさまは、この神との断絶を修復してくださいました。どんなことがあっても、あなたは、神に呪われていると思う必要はない。神が、あなたの苦しみをご自分の苦しみとして共に担ってくださることを、イエス・キリストは示してくださいました。

《祈り》 父なる神さま。イエスさまが私たちの苦しみをご自分の苦しみとして共に担ってくださることを、ありがとうございます。はかない楽しみではなく、今おられ、かつておられ、やがて来られる全能の主がともにいてくださるところに、いつも立たせてください。神さまが与えてくださった人たちとともに喜び、共に苦しむことを選ばせてください。どうか私たちが出会う人たちのうちに神さまの美しさを見出すことができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2025年5月25日 橋本いずみ)