2020年11月1日主日礼拝説教

《 渇きが癒される 》

ヨハネによる福音書   4:7〜26

イエスは答えて言われた。「この水を飲むものは、だれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは、決して渇かない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は、言った。「渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」…イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」

(ヨハネによる福音書 4:13〜24)

死と渇き

渇きというのは、欠乏や欠如を表す言葉です。それは、肉体的なものだけでなく、聖書には義に飢え渇く(マタ5.6)という表現もあります。主イエス・キリストの十字架上の七つの言葉の一つは「渇く」(ヨハネ19.28)です。御子イエス・キリストは、「渇く」と言って、この世に来られた使命を成し遂げられたのです。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、…あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩22.16)渇きの極みが死であり、主イエスは、十字架の死に至るまで父に従順に歩まれました。

渇きを癒すための水

わたしたちは死すべきものであるという現実を受け止めるのは難しいと思います。大切な人が死んでしまうと気力が無くなりますし、がっくり落ち込みます。自分の死を考えると悲しみと恐れが襲って来ます。人は何とかして、渇きを満たそうとします。サマリアの女が、毎日水を汲みにいくように、ある人は、家族、友人、富、仕事、楽しみによって渇きを満たそうとします。

井戸と湧き出る泉

サマリアの女は、父ヤコブの井戸から毎日水を汲みました。

しかし、その水を飲んでもまた渇く。何度水を汲んでもしばらくすれば、また渇く。その水は、井戸の水であり、その水も尽きてしまうこともあるのです。

主イエスは、この女性に水を与えると言います。その水は、尽きることない泉となってこんこんと水が湧き続ける。汲んでも尽きないし、渇くこともない。

主イエスは、「わたしを信じるものは、決して渇くことがない。」(ヨハネ6.35)「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲みなさい」(7.37)とおっしゃいます。そして、このサマリアの女に「わたしを信じなさい」と招かれています。

主は、私たちのうちから恐れを取り除き、悲しみを癒し、勇気を与えて、わたしたちを生かしてくださいます。

私たちは十字架の主を見上げて、死すべきものであることを思い起こし、わたしたちの渇きを癒し、生き生きと活かしてくださる主を覚えます。神の御子イエス・キリストは、死すべきものに、永遠の命を与えてくださいます。

《祈り》

天の父なる神さま。召天者記念礼拝に招いてくださりありがとうございます。先に天に召された方々を覚え、天においても地においても、主となられたイエス・キリストの御名をほめたたえます。わたしたちは、この地にあって生まれては死んでいく命の連鎖の中に生まれました。限りある命の中で、永遠なる主との出会いを与えられたことを感謝します。主イエス・キリストを信じる信仰と永遠の命を与えてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

 (2020年11月1日 召天者記念礼拝 橋本いずみ)