2021年7月18日 主日礼拝説教

《 対立が生じる 

ヨハネによる福音書7:40-44

この言葉を聞いて、群衆の中には「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者いたが、手にかけるものはなかった。(ヨハネ7:40-44)

ひっそりと人目を避けて、隠れるようにして、仮庵祭に行かれましたが、祭りの最終日には、イエスさまは、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と大声でおっしゃいました。この祭りで、イエスさまは、ご自分のことをはっきりと大声で語ってきたのです。

この言葉を聞いて、群衆の中には、対立が生じました。それは、イエスさまに関することでした。

一つ目に出てくるのは、「本当にあの預言者だ」と言うものでした。あの預言者というのは、終末の時に、神の民に救いをもたらす預言者ということです。二つ目に出てくるのは、「メシアだ」というものです。これも、終末の時に、救いをもたらす油注がれたものであるということです。

イエスさまこそが、終わりの日に、救いをもたらす救い主であると語り始めるものたちがいました。

洗礼者ヨハネは、「メシアなのか」「預言者なのか」と問われた時、そうではないと答えています(1:19−28)。群衆は、終わりの日に、救いをもたらす方を待っていました。そして、イエスさまの言葉を聞いて、イエスさまこそが、終わりの日に救いをもたらす方であるという人たちが出てきたのです。

しかし、その一方で、それを否定する人たちがいました。その論拠となっているのは、聖書に書いてあること(ミカ5:1、サム下7:12-)で、「メシアは、ダビデの子孫でダビデのいた村ベツレヘムから出ると聖書に書いてあるではないか」と主張しています。イエスさまは、「ナザレのイエス」として知られていました。

イエスさまも、「聖書に書いてあるとおり」と渇いている人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになると語られました。しかし、同じ聖書を論拠にして、イエスさまが、救い主ではないと主張する人たちがいたのです。彼らはよく聖書を研究していたのでしょう(5:39,40)。聖書は、神の御子イエス・キリストを証するものです。そのことを忘れてしまうと、イエスさまの言葉が聞こえなくなってしまいます。神さまの御業が見えなくなってしまいます。イエスさまを捕らえようと思うものたちがいました。しかし、それを実行することはできなかった。救いの出来事が鮮やかに示されるために、時を定めて、支配しておられる神がおられるからです。

【祈り】

天地万物を創造し、時を定めて、今も救いの御業をなされる父なる神さま。聖書を開くとき、イエスさまを証する言葉によって、わたしたちに希望を与えてください。イエスさまが、救い主であることの意味を、その事実が、私たちにもたらすものを、もっと深くわたしたちに教えてください。主の御名によってお祈りします。アーメン。

(2021年7月18日 橋本 いずみ )