2022年8月14日 主日礼拝説教

《 わたしたちのなすべき礼拝

ローマの信徒への手紙12:1~21

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。                         (ローマ12:1-3)

1 私たち日本人は「礼拝する」ということを、どこか日本的宗教行為と考えがちである。それは言い換えれば、呪詛・崇拝としての礼拝行為とも言いうる。「二階建ての信仰」という言葉や「日曜日のみのクリスチャン」という言葉がここに当てはまってくる。日本の宗教意識によれば、結局のところ聖と俗は分離されているのであって、聖の場に「参加させていただく」という意識が支配的となる。礼拝とは、一時的にありがたいものに触れる「聖の機会」であって、自分の生活(俗)とは分離されたものであるという呪詛・崇拝の意識が拭えないのである。

パウロは違うと言う。礼拝とは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝である」と述べる。つまりパウロの語る礼拝とは、一次的な呪詛や崇拝によるものではない。自分自身を献げる生活に由来するものである。私が西宮一麦教会に呼ばれている一つの理由は、この「献身」に繋がれていることにほかならない。教会は、地域共同体である。しかしそれ以上に、教会の本質は「献身共同体」である。それは一人一人の献身にキリストの香りの響きがあるということである。献身なき礼拝は、喜びに欠ける。おそらく、牧師一人が宗教行為を施すという意識が醸成される。地方教会の一牧師として、牧師を一人にしてはいけないと心から言いたい。

2 私たちは「献身せよ」との命令を聖書から聞く。この聖書の響きは弟子たちが主キリストと歩み出す最初から響いていた。キリストが「わたしについてきなさい」と述べるとき、最初の弟子であるペトロと兄弟アンデレは網を捨てて従った。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは父ゼベダイと雇い人たちを残してキリストに従った。私たちの信仰のキリストに従うという信仰の基には、何かを「捨て」て、キリストを、ただキリストのみを中心とするという確信に生きる決心があった。捨てることは恐怖であった。しかし、目の前にそれ以上のキリストへの期待があった。捨てることに後悔があった。しかしそれ以上に招きにおいて召してくださるキリストの喜びがあった。献身することは、献げることを求める。そして献げるとは、どこかで捨てることにつながっている。捨てることに恐怖がある。後悔がある。しかし献身には、捨てる恐怖や後悔以上に、キリストの喜びがある。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(ローマ12・2)との呼びかけを聞くとき、世を捨てるほどの恵みと招きがキリストにあること、私たちがその信仰の喜びに生かされてきたことを思い起こさなくてはならない。たとえ世の中のものを全て手に入れても、決して得ることのできない喜びがキリストにある。

3 自分が「聖なる生けるいけにえ」(ローマ12・1)とはすごい言葉ではないか。自分を顧みて決して「聖」などとは言えない。しかし、「聖」とされているのがクリスチャンなのである。そして「聖」とされていくのがクリスチャンなのである。献身は「捨てる」だけにとどまらず、「心を新たにして」(ローマ12・3)変えられていくことである。キリストを喜んで生きる時、キリストにある命に変えられ続けていくのである。

喜ぼうではないか。あなたを捉えるキリストが、今日もあなたを招き、変え続けてくださるのだから。信じようではないか。キリストの命がわたしを変え続け、教会を変え続け、キリストの体なる教会を確かに導くのだから。

アーメン。主イエスよ、私たちをあなたの命の輝きに捉え、変え続けてください。             (2022年8月14日 榮  厳牧師)