《 試練の湖(うみ)に来給う主 》
詩編107:28~31
マルコによる福音書 6:45~52
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向
こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は
群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために
山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出て
いたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風
のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明
けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そ
ばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上
を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫ん
だ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエス
はすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐
れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれ
ると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからで
ある。 (マルコ6:45~52)
飼い主のいない羊のような 5 千人の給食の奇跡の
後、主はすぐ群衆を解散させられた。人々が主を「王に
するために連れて行こうとしている」事が解散の原因
のよう(ヨハネ 6:15)である。福音が間違って受け止め
られそうな場面で、主は弟子達を強いて試錬の湖へ船
出させられた。主ご自身は「祈るために山へ行かれた
(46)」。沖へ漕ぎ出した弟子達は闇の中で嵐に出会っ
た。大きな試錬である。自分達の願いや計画でなく主
に従ったのに逆風の危機である。私達も同じ経験をし
て悩んできた。
しかし主イエスは、この弟子達が逆風に翻弄されまさ
に絶望している時、祈り続け一人一人に、そして教会に
心を向けておられた。「漕ぎ悩んでいる」の『悩む』とい
う語は試金石にこすりつけて本物かどうかを確かめる
という意味。苦難の中で、救い主キリストと私は、どう繋
がっているのかである。
「夜が明けるころ」夜の闇が最も暗く夜明けの兆しも見
えない頃、主は来たり給うた。しかしこの時、主は「そばを
通り過ぎようとされ(48)」た。こういう状況は聖書にしば
しば出てくる。預言者エリアが洞穴に隠れた時(列王記
上 19:11)、また復活の主がエマオ途上で二人の弟子
に現れた時もである(ルカ 24:28)。そばを通り過ぎて、
先に進んで行こうとされたのではないか。そうだ、シェン
キヴィチの作品『クオバディス』で、通り過ぎようとされる
主にペトロが「クオバディス・ドミネ(主よ、どこに行き給
う)」と言った場面があるが、ここでも復活の主は前進を
促して迫害下のローマに向って、そして救いの完成目指
して進んで行かれたのだ。
50 節では弟子達「皆はイエスを見ておびえた」と記さ
れている。主ご自身を目前にしながら幽霊(本当は存在
しないものの意)だと思った。ここに弟子達の、いや、私達
の不信仰の深刻さが明らかになる。救い主を待ち望み
ながら、事実来て下さった主を信じる事が出来ないのだ。
しかし「わたしだ」と、顕現と臨在を宣言して下さる。
嵐の中で揺れる初代教会は、このような場面を何度も
経験したが、主をお迎えし舟に乗って頂いたら「風は静ま
った(51)」。主をお迎えすることが一番である。その為に、
しっかりと主を見つめ、祈ろうではないか。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、 主は彼らを苦
しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させら
れたので波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び
祝い望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈
しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
(詩編107:28~31)
(2022年9月4日 市川忠彦)