《 救われた“生涯一(いち)求道者” 》
フィリピの信徒への手紙 3:5~14
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民
に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ
人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点
では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころ
のない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれ
らのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったの
です。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあ
まりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを
塵あくたと見なしています。 (フィリピ3:5~8)
『獄中書簡が歓喜の書簡だった!』 5 節~6 節は、パウ
ロの傲慢・高姿勢の「わたしは超エリートだった」との自己
紹介であるが、全体の中でどのようなメッセージになるの
か。ここは 7 節以下の伏線、「わたしにとって有利であった
これらのこと」が、今では「キリストのゆえに損失」となりす
べてを捨てたということに繋がる。
パウロに人生の大逆転(使徒 9.22.26 章)をさせたの
は、神の「高価な真珠(中身は、ヨハネ福音書 3:16.ロー
マ 8:32.Iヨハネ 4:10)」だった。これを買う為に「持ち物
をすっかり売り払い(マタイ 13:45.46)」と言う。しかも救
われた私は、教会とキリストを迫害した神の敵であり、塵あ
くた・ゴミ・汚物として廃棄されて当然のものなのに、、、、。こ
こにパウロの驚きと底知れぬ喜びがある。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリ
ストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかり
か、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばら
しさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆ
えに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと
見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認め
られるためです」(フィリピ3:7~9a)
ところが 7 節以下は、繰り返し言い聞かせるように言う。
原文(ギリシャ語)で見ると、救われた大逆転の恵みが今も
続いている(完了形)。「あまりの素晴らしさ」を経験すれば
するほど、今も救いを確信している(現在形)。そして『救い
の完成という将来』を今目指している(現在形)。彼は試練
に遭い、信仰の闘いの中で、何度も決心し直した。ここに
彼の内面の闘いと天向きの信仰の姿勢を見る。私達もす
ぐ昔の罪の自分に戻ってしまう。しかし、その都度悔い改め
=方向転換し、「わが主よ、わが神よ(ヨハネ 20:28)」と告
白しつつ前進するのだ。しかし、どうしたら『救いの完成』
にたどり着けるのか?
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な
者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努
めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられている
からです。」(フィリピ3:12)
ここには二つの対照的な信仰の姿がある。1救い主から与
えられた徹底した平安と安心の姿。2それとは逆の、主の平
安に包まれながらも、そこで経験する激しい信仰の闘い・葛
藤と天向きの努力・烈々たる求道への熱情、、、、、
1「キリスト・イエスに捕らえられている(12 節)」と、2「何と
かして捕らえようと努めている(12 節)」=「目標を目指して
ひたすら走る(14節)」この二つの姿である。
『救われていることを確信している”生涯一求道者”』神学
的に分かり易く言うと、『救いは既に、救いの完成は未だ』こ
こに信仰の奥儀の深さがある。
天の都を目指す山岳鉄道に乗っている信仰者―確実に終
点目指す車中の私は、しかし確信が薄れたり心や体が弱り、
スイッチバックのジグザグ運転の為に終着駅がぼやけたりす
る。わからないことが余りに多い。しかし、(ヨハネ 13:7. Iコ
リント 13:12)、天のふるさと・天の教会で、主から全ての意
味と訳を教えて頂く時が必ず来る(タペストリーの詩)。揺り動
かされ訳がわからず苦しんだ本当の意味=神の深いみ心を
明かして頂ける天の時を信じて歩み続けよう。
(2022年10月2日 市川忠彦)