2022年10月9日主日礼拝説教

《 キリストの兵士 》
テモテへの手紙二 2:1~13
そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける
恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前で
私から聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる
忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な
兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服
している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自
分を招集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加
する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受け
ることができません。労苦している農夫こそ、最初に収穫
の分け前にあずかるべきです。私の言うことをよく考えて
みなさい。主はあなたがすべてのことを理解できるように
して下さるからです。 (テモテ二2:1~7)
1「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦
しみを忍びなさい。」(2:3)キリストの兵士でありなさい。
一番兵でありなさい。そんなことを言われると困ってしまう。
兵士とは軍隊の指示に従順に従うものだ。どんな指令が
飛んできても一直線にその指令に向かっていくものだ。キ
リストの兵士でありなさい!-キリストの兵士のように福音
に従い、真っ直ぐに生きてきたかというと、そんな立派な
信仰ではなかったことに気づかされる。むしろ、兵士のよ
うに生きられない自分がいるのである。
2パウロの一番弟子の一人であるテモテも同じだった。
ペトロやパウロといった教会第一世代のリーダーたちの背
中を見て育った、いわば教会第二世代のリーダーがテモ
テだと言える。そのテモテが気落ちしていることがこの手
紙全体から読み取れる。どうやら教会員の中に色々な人
がおり、パウロのようなリーダーシップで導くことができず
にいるのだろう。状況の困難を受けて、自分自身の能力の
低さを気落ちしている。パウロたち信仰の先輩は、伝道の
困難の中で立派に生き抜いて、多くの成果を得てきた。そ
のような立派な姿を知っているからこそ、自分は牧会者と
してもクリスチャンとしてもダメなんじゃ無いかと思う。「社
内評価」ならぬ「福音評価」なるものが勝手に思い浮か
べられ、自分の信仰がまったく良いものと思えなくなる。福

音に生きることが喜びではなく、苦しみに変わっていく。
3キリストの兵士であれ!この言葉が立派な信仰者であ
れ、という言葉に留まるならば、テモテにとって「苦しみを気
合いで乗り越えろ」と言われているようにも感じられただろ
う。しかし、手紙の著者パウロはテモテに「そういうわけで、
わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている
神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」(1:6)と
この手紙の冒頭で述べている。つまり、テモテに求められ
ているのは、立派な信仰者となり「福音評価」を上げろと
いう命令ではない。初めの福音に立ち返る励ましである。
クリスチャンは望んで信仰を得たのではない。与えられて
信仰を得たのである。クリスチャンは望んで賜物を得たの
ではない。神様からの恵みの贈り物として賜物を得たの
である。
4キリストの兵士として生きよう!それは、ただこの恵みだ
けを見て生きよと言う励ましである。どんな成果が得られ
るかに目を奪われるのでもない。どんな評価が周囲から
与えられるかに怯えるのでもない。キリストがあなたに求
めている役割がある。使命がある。使命に生きる時、うまく
いかない苦しみを背負うこともあるだろう。理想と現実の
違いに苦しむことがあるだろう。しかし、私たちは現実に諦
めるのでもない。自分能力の無さに気落ちするのでもない。
ただこの恵みの使命を与え、恵みの使命を完成させるキリ
ストを信じるのである。キリストを信じて、最前線に立つの
である。能力を誇るのでも、結果を見るのでもない。キリス
トがなさる業を喜ぶ兵士。御国の完成を信じて、信仰に背
中を押される兵士。それぞれの使命を生きる兵士であるこ
と。それがクリスチャンの喜びである。
(2022年10月9日 榮 厳)