2022年7月24日礼拝説教

 信仰神様からの賜物 

マルコによる福音書9:14〜29

一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論をしていた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を吹き出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

(マルコ9:14-29)

神様が、わたしたちの心に信仰を生み出してくださいます。主イエスというお方に出会ってはじめて、わたしたちの心に「信じます」という信仰が生まれます。

病気の息子の父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と主イエスに願いました。(22節)「おできになるなら」とのひと言は、「お差し支えなければ、ぜひお願いします」という謙遜の表現ではないと思います。このひと言は、「主イエスにも息子を癒やすことはできないかもしれない。できるとしても、癒やしてくださらないかもしれない」という疑いの言葉です。

もちろん、「わたしどもを憐れんでお助けください」という願いは、父親の切なる祈りでした。これまで、父親はずっとこの祈りを、神様に願い続けてきたはずです。時には、地面に倒れ、転び回って苦しむ息子を抱きしめながら。時には、火の中や水の中に飛び込んで息子を助けながら。けれども、父親が祈り続けてきた願いは、これまでかなえられないままでした。だから、父親は主イエスにも「おできになるなら」と言ったのでしょう。父親は「このお方(主イエス)なら、助けてくださる」と信じたいのです。そのように、主イエスを完全に信頼して祈り、自分自身も息子も主の御手に委ねることができたら、たとえ願いがかなえられなくても、平安を得られるでしょう。そのような信仰にあこがれながらも、父親は「祈っても、やはり、癒やされないかもしれない」と、心の深いところで主イエスを信じきれずに、疑っています。この疑いは、捨てようとしても、自分では捨てきれないほど、心に深く根づいてしまっています。

主イエスは父親に「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われました。(23節)「あなたのように不信仰な者には、わたしに祈る資格はない」とは言われません。「あなたの祈りから、『できれば』というひと言をとってごらん。わたしを信じて大丈夫だから、思い切って祈ってごらん」と、父親を励ましてくださいました。

父親はすぐに叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(24節)父親は、「自分の心から、自分自身で不信仰を取り除くことはできない」と気づきました。それでも、やはり祈りたい。だから、「信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。

しかも、同時に、父親は「信じます」とも叫んでいました。「信仰のないわたし」と自覚しているのですから、「信じます」と言うのは矛盾していると思われるかもしれません。しかし、「信仰のないわたし」が、何の条件も付けずに、ただ「信じます」と主イエスに言うことができました。これは、神様の憐れみによる奇跡です。父親も、自分自身の「信じます」という言葉に驚いたかもしれません。この「信じます」という信仰の告白は、主イエスに導かれて、主イエスに授けていただいた言葉でした。信仰は、信仰のない者に与えられた神様の憐れみであり、賜物なのです。そして、わたしたちは、自分の信心ではなく、神様の憐れみによって与えられた信仰を土台として、祈ることができます。

(2022年7月24日 五十嵐 高博)