2022年8月21日 主日礼拝説教

《 沈黙の中に現る幻 》
ヨハネの黙示録1:1〜8
イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずの ことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、 そして、キリストがその天使に送って僕ヨハネにお伝えになっ たものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、 すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。この預言の 言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守 る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。(ヨハ ネの黙示録 1:1-3)
ヨハネの黙示録が書かれたのは一世紀の終わり頃、教会 にとって大きな苦難の時代でした。ローマ皇帝以外を拝む 者たちは重い刑罰を受け、時に殺されました。そんな中、神 はヨハネに幻をお見せになりました。その時、ヨハネはパトモ ス島にいました。信仰ゆえに島流しの刑に処せられていた のです。ヨハネは、主の日であることを思って祈っていました。
ヨハネが見たのは、開かれた天の門、天上におられるキリ ストの姿、天上で捧げられている礼拝でした。さらには、天上 から地上の世界に向かって、これから起ころうとしていること、 終わりの日の情景でした。それらの幻は書き記され、今日に 至るまで礼拝で朗読されてきました。天の門は、主の日に礼 拝し、あるいは礼拝に集えない孤独や苦難の中で祈る私た ちに向かって、大きく開かれているのです。
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4 節、8 節)。 神は、「やがて来られる方」です。刻々とこちらに近づいてお られます。同時に、「かつておられ」た方です。過ぎ去った過 去もまた、神と共にあった。どうしてあんなことになったのか。 そんな凍てつくような夜があったかもしれません。しかし、あ の時も神は私と共におられた。そう知らされる時が来ます。 何より、その方は「今おられ」る方です。ヨハネは伝えます。 神は、やがて来られるだけでない。かつておられただけでな い。「今おられる、あなたがたと共に!」 イエス・キリストは、 「証人、誠実な方」。主イエスは、人の罪を背負って代わりに 十字架につけられるという、究極の苦難と不条理を味わわ れながら、その時でさえも神は共におられたことを、ご自身 の死と復活をもって証してくださいました。主は、人生の途上
で、苦難や不条理としか思えない出来事にあい、叫ぶ私た ちに、それでもなお「神はあなたを愛しておられる、今もあな たと共におられる」と語ることができるお方です。 主は「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司 として」(6 節)くださいました。神に愛され、罪赦されて、なお地 上に残されるのは、私たちを王とし、祭司とするためです。ヨハ ネは、ローマ皇帝のもと、孤独な生活を強いられました。私たち も世の力に追いやられ、悲しみや孤独を強いられることがあり ます。しかし、ヨハネはそのような中で、本当の支配者はまぎれ もなく神であることを目の当たりにしました。私たちは、キリスト 以外の何ものにも支配されない王として生きよと言われてい ます。そして、「父である神に仕える祭司」として生きよと呼ば れています。祭司は神と人との間に立つ人です。私たちは祭 司として、隣人のために、この世のために、罪の赦しを求めるこ とができるのです。
神に愛され、罪赦されていることを知り、将来の命の目覚め の約束を知って、祭司の務めに生かされると、世界の見え方 がすっかり変わってしまうのでしょう。「見よ、その方が雲に乗っ て来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き 刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲し む。」(7 節)ヨハネが一番近くに見ていたのは、自分の孤独で も、迫る死でもありませんでした。一番近くに見ていたのは、死 からよみがえられ、天に昇られたキリストが、いよいよこの地に 再び近づいて来られる姿。そのキリストを突き刺した自分たち の罪であり、その罪を負って死んでくださったキリストを思うゆ えの嘆きでした。それが、沈黙の中に現れた幻でした。私たち を生かすのは、この幻です。今おられ、かつておられ、やがて来 られる全能の神が、私たちと共におられます。
(2022年8月21日 本庄侑子)