2022年8月28日主日礼拝説教

《 帰って行く人 》 ルカによる福音書 15:11-24


また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟 の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている 財産の分け前をください。』と言った。それで、父親は財産 を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子 は全部をお金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限 りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い 果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べ るにも困りはじめた。 (ルカ 15:11-14)
父親と息子の話であります。息子は父親に要求します。わ たしがいずれいただくことになっている財産を今ください、 と。父親は成人になったらいずれ分けてやろうと思っていた のです。しかし息子はその前に、今ください、と要求したの です。息子は考えました。父親の下にある人生は自分の本 当の人生ではない、と。父親のもとから離れて、そこから自 分の本当の人生が始まるのではないか、そう考えたのです。 父親は息子の求めにこたえました。財産を受けとった息子 は「何日もたたないうちに」「全部を金に換えて」「遠いとこ ろに旅立ち」と記されています。息子の喜びはやる気持ち が表現されています。父親の影響力のない世界に出かけ たい! 父親と息子のこの話は神と人間のことを言っている のです。→神から逃れるアダムとエバの話。
13 節「何日もたたないうちに…(中略)遠いところに旅立 ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を使い果してしまっ た。」神からのがれた人間、そこで自由に自分の思いのま まに生きた人間―その人間は自分の財産を使い果してし まったのです。父からはなれて、自分の思いのままに生きて、 すばらしい生活が始まったか。始まりませんでした。賜物を 使い果し、ボロボロになったのです。これは、誰かの話では ありません。今ある、わたしたちのことが言われているので す。神の束縛なしに生きて、わたしたちの人生は豊かになっ たか?賜物を使い果しているのではないか。
14 節「何もかも使い果したとき、その地方にひどい飢饉 が起こって、彼は食べる物にも困り始めた。」弱り目にたた り目、彼は運が悪かった、そう言えるかも知れません。しか
し、賜物を使い果した人間には、どんな出来事も自分を貶め る災難になるのです。どんな出来事も自分にとって意地悪な 出来事に思えてくるのです。
15 節「豚を飼う」…ユダヤ人は豚を食べません。豚を飼う 者になり、あまつさえ豚のエサさえ食べたいと思ったのは、落 ちるところまで落ちたということです。
17~19 節 そこで彼は「我にかえった」と言われています。 「父のところには、あんなに大勢の雇い人に、あり余るほどパ ンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここを立ち、 父のところに行って言おう。」我にかえったと言われています。 それはちっとも彼が立派だとか良心的だとか言われているの ではないのです。彼は自分の好きなように暮らして、欲望のま まに生きて、父からうけとった財産を使い果したのです。そこ で「我にかえった」。
彼が帰ったときに彼の兄が父親に言いました。「あなたのあ の息子が娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰 ってきた。」と。その通りです。立派でも偉くもありません。息子 はおめおめと帰ってきたのです。恥かしげもなく。
20 節「ところが、まだ遠くはなれていたのに、父親は息子を 見つけて憐れに思い走り寄って首を抱き接吻した。」
父親は待っていたのです。息子がいなくなって、ずっと。だか ら変わり果てた息子を遠くからでも見つけ出したのです。こ のたとえ話の主題は、父親が息子を見つけ出したということ です。自分を駄目にした自業自得の息子を赦して待っていた のです。神は赦して待ってくださるのです。罪を犯し、赦して待 っている父は傷ついているのです。イエス・キリストの十字架 があるから、この息子はおめおめと帰ることができるのです。
「きのうもきょうもかわりなく、血潮したたるみ手をのべ、友よ かえれとまねきつつ待てるはたれぞ、主ならずや」(讃美歌 21197番4節) (2022年8月28日 小島誠志)