2022年8月7日 主日礼拝説教

 あたりまえとき 

ヨハネによる福音書6:16〜21

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて船に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。                           (ヨハネ6:16-21)

弟子たちは、湖畔へ下りて行きました。そして舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとしました。

彼らが舟に乗って目的地を目指し進み始めると、強い風が吹いて、湖が荒れ始めました。荒れた湖の上で、舟は大きく揺さぶられます。弟子たちは、激しく揺れる舟の中で、自分たちの命の危機を感じながら、一生懸命、なんとか前に進もうとしました。

こうなる予定ではありませんでした。弟子たちの中には、舟や湖に詳しい漁師がいます。この天候なら大丈夫だということになって、その時々に適切だと思われる判断をして、ここまで進んできました。彼らが舟に乗って向こう岸を目指し、出発したとき、あたりまえに想定していたのは、穏やかな湖を順調に進んでカファルナウムにつく未来です。けれどもそうはなりませんでした。想定を超える事態、彼らの考えを超える状況へと、進んでいくことになるのです。

大問題が起きているさなか、彼らが乗っている舟は激しく揺れます。突然の強い風が弟子たちを襲ったように、私たちの人生という舟旅にも、問題は突然やってきます。そして問題に影響されて、舟も、自分自身も、根底から、大きく揺さぶられるのです。

揺さぶられている弟子たちのところへ、イエス様は近づいて来られて、こうおっしゃいます。「わたしだ。恐れることはない」。困っている弟子たちからすると、正直に言って何の解決にもならない一言です。「わたしだ。」と言われたところで、私たちの人生に起こる大問題は、何も解決しないと思えるからです。

しかし実は、イエス様の存在こそが、全ての答えなのです。揺れる舟の中で、外の状況も、揺れている自分自身も、とても頼りないものです。何が何だか分かりません。あたりまえだと思っていたことの全てが揺さぶられたとき、私たちが頼れるのは、主イエス・キリストおひとりです。経験に基づいて、自分の力で危機的状況を脱し、向かい風に負けないように進んでいくのではありません。問題と自分からイエス様を切り離すのではなく、むしろ迎え入れる、イエス様を信じるのです。弟子たちがイエス様を舟に迎え入れようとすると間もなく、舟は目指す地に着きました。私たちの思いや考え、あたりまえだと思っている全てを超えて、イエス様は働かれるお方です。

(2022年8月7日 髙橋 幸)