《 いつまでですか 》
詩編13:2~6
マルコによる福音書 15:33~34
いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。いつまで、
御顔をわたしから隠しておられるのか。いつまで、わた
しの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。わたしの神、
主よ、顧みてわたしに答え わたしの目に光を与えてく
ださい 死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと
思うことのないように わたしを苦しめる者が 動揺する
わたしを見て喜ぶことのないように。あなたの慈しみに
依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り 主に向
かって歌います 「主はわたしに報いてくださった」と。
(詩編13:2~6)
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで
続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エ
ロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ
わたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(マルコ 15:33~34)
私共の地上の歩みは、様々な苦難・苦しみの連続です。
そこで問うのです。『何故ですか』と。主も叫ばれました。十
字架の上で『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにな
ったのですか』(マルコ福音書15:34)と。
詩編 13 編は『なぜ苦しみをこれほど与えられるのか』と
の問いを、『いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか』
と問い、神に振り向いても頂けないのではないかとの思い
に駆られています。更に『死の眠りに就くことのないよう
に』(4 節)と言うのです。詩編が書かれた旧約の時代は、
まだ「死」が絶望でした。望みを持てない信仰者の叫びで
した。
ただしかし、口語訳聖書では、詩編 13 編の新共同訳の
6節の始めにあたる部分に『しかし』と入っています。ある
神学者は、これを「おおいなる、しかし」だ、苦しみ・闇で終
わらず闇を突き抜ける大いなるしかしだ、というのです。詩
編 13 編は、神さまが低く降って己を虚しくして我らの苦し
みを顧みて下さっている姿を詩っています。低く降って下さ
った主は十字架で叫ばれ、全き闇に落ちて下さったので
す。使徒信条では「十字架につけられ、死にて葬られ、陰
府にくだり」と告白しています。
東日本大震災から既に11年。あの時、問いました。神さま、
なぜですか?と悶々と問い続けました。震災から四ヶ月後、
教団新報一面にある神学者の説教から答えが与えられま
した。ドイツの画家ホルバインの「墓の中に横たわるキリス
ト」という絵を紹介し「今、我々は、陰府にまで降って下さった
主の陰府を生きている。土曜日のキリストを生きている」そう
言って、土曜日のキリストに目を向けさせてくれました。そして、
我らの今の苦難は、「主の陰府の追体験」だと告白していた
のです。主の陰府は陰府で終わらないことに気付かせてく
れました。詩編 13 編が苦難・闇で終わらず闇を突き抜け
『あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜
び躍り、主に向かって歌います。「主はわたしに報いて下さっ
た」と』(6節)と歌う通りです。
「主の陰府の追体験」の後「復活」に目を向け、我らは主
の甦りの体である教会に繋がっていると示されました。復活
の主が言われました『あなたがたには世で苦難がある。し
かし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』(ヨ
ハネ福音書16:33)。
だから、今絶望の淵にいる方々も、絶望しなくてよいのです。
十字架上であなたに代わって叫びをあげ、あなたに代わっ
て死んで葬られ、陰府にまで降って下さった御子が、「私が
あなたに代わって死んだ。罪人のあなたも死んだ。私の新し
い命に新しく生きよ。勇気を出しなさい。わたしは既に世に
勝っている。」そう言って復活の命を差し出して下さっている
のです。 (2022年9月11日 市川和恵)