《 あなたがたは、わたしの友》
ヨハネによる福音書 15:11~17
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、またわたしの名によって父に願うものはなんでも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
(ヨハネ15:11-17)
主イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「あなたがたは、わたしの友である」とおっしゃいました。友というのは、主従関係、一方的な愛の対象や尊敬の対象で成り立つ関係ではありません。むしろ、苦しみや痛みを共に経験し、喜びを分かち合って、その関係は深められていきます。さらに友は、互いのことをよく知っています。ですから、イエスさまは、弟子たちを友と呼ぶというときに、その理由として「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」とおっしゃっています。
愛の最上のしるしとして、十字架にかかり、自分の命を捨ててくださいました。これ以上ない、愛のしるしを主は、十字架で明らかにしてくださったのです。
イエスさまは、ぶどうの木のたとえで、4節「わたしにつながっていなさい(の中にとどまっていなさい)」、7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたのうちにいつもあるならば(わたし
にとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまるのであれば)」、9節「わたしの愛にとどまりなさい」と語ってこられました。イエスさまの愛にとどまることは、「互いに愛し合いなさい」との命令、掟を守ることです。その目的は、イエスさまの喜びが、弟子たちの喜びを満たすためです。
主イエスによって選ばれたものは、皆、実を結ぶべきであるし、必ず実を結ぶのです。そして、主の言葉をその内にとどめながら、願うことは、必ずかなえられると主は約束してくださいました。
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5:22)です。これらは、他者との関係において、求められるもので自己完結するものではありません。愛の次に出てくるのが、喜びです。主は、愛するものたちが、喜びで満たされることを願っておられます。主は、ご自身の愛にとどまるように、ご自分の命を捧げる友たちに「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。
《祈り》
十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちは、主イエス・キリストによって、あなたのことを知りました。主が、わたしたちの幸せを願い、わたしたちの友となってくださって、わたしたちの悲しみ、苦しみ、痛みを共に担ってくださることを感謝します。どうか、わたしたちを主の喜びで満たしてください。互いに愛し合うことによって、あなたの愛にとどまり、あなたの栄光をあらわすことができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2023/1/15 橋本いずみ)