2023年10月8日 主日礼拝説教

《 主は羊飼い 

詩編 23:1~6

ルカによる福音書15:1~7

「主は羊飼い」。愛称聖句として幾度も口ずさんできた方も多いでしょう。教会でも葬儀や召天者記念礼拝で読まれることが多くある詩編です。23編は「死の陰」が迫り「苦しめる者」がすぐ前にいるという、切迫した危機の中での主にある信仰告白です。

◇迷子の羊 

 羊は目が悪く、目の前の見えるものに付いて行き迷子になってしまいます。私たちも、例えば、目前の楽しさに帰る道を忘れてしまうこともあるでしょう。また、思いもよらぬ困難に捕らわれて、なぜどうしてと問う中で、グルグルとただ自分の中だけで考え込んでしまい、自分の理想や他人への期待から勝手に判断して、自分の思う道に逸れてしまうこともあるのではないでしょうか。羊飼いを遠く離れ見失ってしまいます。

 しかし主は、そのように迷子になってしまった羊の1匹をも放っておかれません。諦めずにどんなに遠く険しい所からも見つけ出し、怪我をして空腹で倒れていても、担ぎ出して取り戻してくださいます。

◇主の御業 

 そうして見つけ出された傷つき痛む羊に、主がなしてくださる御業を23編は歌います。羊飼いであられる主は、まず、何にも先立ち、羊を主の御もとで休ませてくださいます。そして、主にある安息の内に、魂を生き返らせて、主の正しい道に導いていかれます。その「あなた」こそが「共に」いて、鞭で襲い来る野獣を追い払い、杖で支え、もう一度歩み出すようにと力づけてくださいます。その歩みが敵の面前にあっても、食卓を整えて飢えさせず、恵みで杯を溢れさせてくださいます。そして、その歩みの全てを「恵みと慈しみ」で追ってくださり、遂に「主の家」まで導き続けてくださいます。私たちの終わりは死ではない。命に至る旅にある希望を仰がせてくださいます。

◇礼拝

 私の祈りの中で支えられている神学校生活は、恵みであると同時に大きな試練でもありました。絶望に陥れ、主から引き離そうとする恐ろしい力に目を奪われてしまうのです。しかし、私がどんなに迷子になり負傷しても、羊飼いであられる主は、孤独に呻き、不安に涙するその淵にも来てくださり、主日ごとに御もとに取り戻し続けてくださいました。私たちの「青草の原」、「憩いの水のほとり」は礼拝なのです。

 そこで静まり、命の糧なる御言葉をお聴きする時、私たちは目の前の困難に目を奪わ惑わされ、まるで自らが羊飼いであるかのように振舞う傲慢な姿に気付かされハッとさせられます。滅びに至る道に迷い込んでしまっていた。しかし、主はそんな私たちを「だめだ」と叱りつけ切り捨てるのではなく、なんと、私たちの傲慢さという罪をも全部代わりに負って、十字架で赦してくださったのです。そして「あなたは決して独りではない。私はあなたを見捨てない。いつも一緒にいる。だから、立ち上がれ。生きよ。」と語りかけてくださる。何という恵みでしょう。御言葉で「生き返らされ」、死から命へと取り戻されるのです。

◇主と共に命に至る旅の歩み  

そして、ふつふつと沸き上がる深い感謝の内に、私たちは力づけられもう一度立ち上がらせられます。死に打ち勝たれた復活の主が一番近くにおられ、「主の家」に帰る旅を導き続けてくださいます。その旅の最終目的地は「主の家」、命です。その歩みには、なお困難があるでしょう。しかし、目に見えるのが何であっても、なお私たちを追ってくださっているのは「恵みと慈しみ」なのだと、十字架と復活の主が約束してくださいます。「わたしがあなたと共にいる。あなたを主の家、命に必ず導き上る。だから大丈夫。安心して共に旅を続けよう。」私たちの羊飼いの御声にお委ねしお従いする歩みに、新たに送り出されるのです。

(2023年10月8日 神学校日礼拝 原田雅子神学生)