2023年6月25日 主日礼拝説教

《 茨の冠 

ヨハネによる福音書19:1~7

そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見出せないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架に付けるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」     ( ヨハネ 19:~7)

イエス・キリストに与えられた冠は、茨の冠でした。冠は、王や高位にある人、勝利者が地位や名誉を表すために載せられるものです。王には、金銀ででき宝石で飾られた王冠が、競技の勝利者には月桂樹の枝葉で作られた栄冠が与えられます。しかし、神の御子イエス・キリストには、茨の冠が載せられました。

ピラトは、茨の冠をかぶり、紫の服を着たイエス・キリストをユダヤ人たちの前に立たせ「見よ、この人を」と言いました。茨の冠をかぶせられ、されるがままで、何の抵抗も見せないこの人に、国を破壊する危険な力はなく、何の罪もないと、ピラトは見たのです。賛同を得るだろうと思って「この人を見よ」とピラトは言ったのですが、ユダヤ人たちから返ってきた答えは、「十字架につけろ」と叫ぶ声で、ピラトが予想した反応とは全く違うものでした。

そして、ピラトは、ユダヤ人たちが、訴えている本当の理由を聞かされることになりました。それは、律法に神の子と自称したということによる、神への冒瀆罪で

した(レビ24.16)。「神をご自分の父と呼んで、御自身を神と等しいものとした」(5.18)、「あなたは人間なのに、自分を神としているからだ」(10.33、10:36)と、訴えてきました。神以外のものを神とすることに、人間の罪があります。人の罪は、神のようになろうとすることに根を持っているのです(創世記3章)。自分を神のようにすることが、罪にあたるというのは、もっともなことなのですが、これを語っておられるのが、神の御子であるということに、ユダヤ人たちは気づいておらず、神が与えるキリストは、神が救い主キリストとしてお与えになったお方を見ていません。

 わたしたちが、見るべきは、神の御子イエス・キリストです。このお方を通して神が働かれ、救いを成し遂げられるということです。茨の冠をかぶせられたこのお方が、わたしたちの救いを成し遂げてくださいました。大祭司ヨシュアの戴冠の時に「見よ、これが『若枝』という名の人である。…彼は主の神殿を立て直す」(ゼカリヤ6:12)茨の冠をかぶせられたイエス・キリストが、わたしたちを、教会を建て直されます。

《祈り》

十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。茨の冠をかぶせられ、十字架にかかってくださった方は、よみがえり、王の王になられました。イエス・キリストを、わたしたちの王、世界の王として、その栄誉を讃えます。どうかその御力のうちにわたしたちを守ってください。イエス・主の御名によって祈ります。アーメン。

(2023/6/25 橋本いずみ)