《 自ら十字架を背負う 》
ヨハネによる福音書19:16~18
こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。またイエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に十字架につけた。(ヨハネ19:16-18)
人々は、十字架につけるために、彼を受け取ります(1.11)。イエスさま、自ら十字架を背負って、ゴルゴタに向かいました。ゴルゴタは、エルサレム城壁外の小さな丘の処刑場で、頭蓋骨が埋められていたこと、もしくは、頭蓋骨のような形をしていたことから、「されこうべの場所」と呼ばれていました。ラテン語訳で、「カルバリ」と訳されるところです。
死の象徴とされる「されこうべ」という名がつけられたところに、主イエス・キリストは、自ら十字架を担いで出かけて行きます。
弟子たちが今のところ、持ち応えることができないもの(16:12)をイエスさまが担われます。
イエスさまは、自ら十字架を担いでいかれます。他の福音書を読むとキレネ人シモンが、イエスさまの十字架を担がせられた(マルコ15:21)と、他の福音書とは違うことばをつかった、イエスさまが十字架を担う、というのと、シモンが運んだのは違う言葉を使った。イエスさまが、担ってくださったのは、「わたしたちの患いであり、わたしたちの病」(マタイ8:17)です。
イエスさまは、痛み、病を十字架で負ってくださいました(イザヤ書53章)。主は、苦しみ、十字架を追われますが、それは、わたしたちが癒されるためのものです。わたしたちの背き、咎のために主はその苦しみの十字架を追ってくださるのです。主は、自らの苦しみの先に、実りがあることを知っておられて、自ら十字架を背負ってくださいました。そして、その十字架は、自らの十字架、神の御子イエス・キリストにしか背負うことの出来ない十字架でした。
イエスさまは、二人の人と一緒に十字架につけられました。彼らが、誰だったのかをヨハネによる福音書は記していません。二人の人の真ん中に、彼らは十字架にかけられているので罪人であるに違いないのですが、その二人の人の真ん中に、最も人目につくそのところで、主は十字架につけられます。
イエスさまが十字架を背負われたように、自分の十字架を背負って、主に従うように招かれたものたちがいます(ルカ14:27)。イエスの名を伝えるために、イエスの名を負って(使徒言行録9:15)生きるようになりました。そして、彼は、イエスの焼印を身に受け(ガラテヤ6:17)キリストのものとされました。そして、キリストのものとされた人々の間では、負うべき重荷があり、互いに担いあうべき重荷がある(ガラテヤ6:2、5)のです。
イエスさまは、わたしたちが負うことのできなかった、病、痛み、患い、罪、重荷、そのすべてを負ってください、わたしたちに癒し、赦し、永遠の命を与えてくださいました。わたしたちが自分の十字架を負うとき、その只中に主がいてくださいます。
《祈り》 十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。神の御子イエスさまが、わたしたちの担うことのできない罪、重荷、痛み、病、患いを担って、十字架にかかってくださいました。言い尽くせないほどに深いあなたの憐れみと慈しみに感謝し、あなたの御名をほめたたえます。イエス・キリストの名をわたしたちにしっかりと刻みつけ、あなたの名が広く宣べ伝えられ、十字架の主の栄光が世界の至る所で輝きますように。主の御名によって祈ります。アーメン。(2023年7月23日 橋本いずみ)