2023年7月9日 主日礼拝説教

《 「十字架につけろ」と叫ぶ声 

ヨハネによる福音書19:13~16

ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

   (ヨハネによる福音書 19:13~16)

主イエス・キリストは、裁判の席に着きました。それは、過越祭(出エジプト記12章)の準備の日の正午ごろ(ヨハネ4:6)のことでした。これは、マタイによる福音書の時間の記述(27:1)とは、異なるのですが、過越祭の準備の日の正午ごろというのは、過越の小羊が屠られ始める時間です。この食事と共に、酵母を入れないパンが食べられました(ヨハネ6:32-35)。過越の小羊として、ご自分を献げるために、主イエス・キリストは、裁判の席に着かれました。災いの中から救い、渇いている人々を癒し、飢えているものたちを満たし、世に救いをもたらす出来事が、これから始まるのです。

ピラトは、イエスさまを、釈放しようと思っていたのに、主を裁判の席に着かせた時、「十字架につけろ」という叫び声、「皇帝のほかには王はない」と言う人々の声に流され、イエスさまを十字架につけるために引き渡しました。

人々の絶叫する声が響いています(18.40、19.6)。人々は「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫びます。殺せというのは、取る、取り除ける、背負う(ルカ9:23)、さらうなどの意味があります。洪水が人をさらうように(マタイ24:39)、イエスさまを「亡き者にせよ(殺せ)」という叫びは、ピラトのイエスさまは無罪だとの思いを押し流していきました。

そして、人々が叫び要求した「十字架」は、ローマの処刑方法で、奴隷や皇帝への反乱分子に施されました。主が、「僕の身分となり…十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6−8)と語られるのは、十字架刑がどのような人に施されていたかという背景があるのかもしれません。イエスさまを引き渡した人たちは、あくまでも、ローマ帝国に反逆するものとして、ピラトに裁かせ、自分たちは、皇帝を王とすることを明言しています。ピラトも人々も主イエスによって現された栄光、隠されているけれども確かにもたらされつつある神の国よりも、華々しい皇帝の力と輝きのもとに身を置き、支配されると言うのです。

主は、「十字架につけろ」とのの叫び声の只中におられますが、イエスさまは、大声で叫んだことがありました。死んでいたラザロに向かってです(ヨハネ11:43)。「ラザロ、出てきなさい(ラザロ、ここへ、外に)」。罪が支配する闇から、主がおられる外へとわたしたちを連れ出すために、主は、「殺せ、十字架につけろ」と叫ぶ人々の中に身を置いてくださいました。そして、闇の支配から、救い出されたものたちに、主は「わたしについて来たい者は、自分を捨てて(無視して)、日々、自分の十字架を背負って(取って)、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と招かれます。

《祈り》

十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。主は、わたしたちを罪の世から救い出すために、十字架にかかってくださいました。神さまの支配が現され、この地に御心が行われますように。日々、十字架を担いつつ、主に従う者とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2023/7/9 橋本いずみ)