2024年1月14日 主日礼拝

《 すがりつくのはよしなさい 》

ヨハネによる福音書 20:11~18

イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向きて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

(ヨハネ20:16-18)

十字架にかかり、よみがえられた主イエス・キリストは、マリアに現れてくださいました。マリアは、イエスさまと話していましたが、その目と心が閉ざされていて、イエスさまだとは分かりませんでした。主が「マリア」と呼ばれた時に、マリアは、今対話をしていたお方が、主イエス・キリストであるということに気づきました。マリアと復活の主との出会いは、このようにして起こりました。

復活の主はマリアに、「すがりつくのはよしなさい」と言われます。復活した主は、父のもとに帰らなければならないからです。主イエス・キリストは、ご自身が栄光を受けるため、そして私たちのための栄光の道を開くために、父のもとに行かれます。そして、主イエス・キリストが父のもとに行かれるからこそ、イエスさまがこの地上で父との関係に生きたように、この世にあって、マリアも、弟子たちも、また、わたしたちも、父なる神さまとの関係に生きることができるようになるのです。ですから、イエスさまは、マリアに「すがりつくのはよしなさい」と主イエスを自らの手の内に留めようとしてはならないとおっしゃっいました。

マリアは、まだ自分が話している相手が、主イエスだと気づかなかった時、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」(15節)と言っていますから、イエスさまを自分の近くに留めておきたかったに違いなかったはずです。そして、これまで、主イエスとともに歩んできたのと同じようにこれからも、主とともにあることを望んでいたはずです。しかし、マリアに現れてくださった復活の主は、マリアとの新しい関係に入っていこうとされます。復活の主との関係は、マリアが、すがりついて保っていくような関係ではないのです。主イエスが「わたしの父であり、あなた方の父である方、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへ上る」と言われていたことを、語り継ぐことを命じられました。

主が天に上げられることによって、新しく始まった、交わりがあります。それは、父なる神さまとイエス・キリストと主を信じ、主に従うものたちの共同体です。

父のもとに上げられる主イエス・キリストの新たな使命は、主を信じて、この世にあって寄留者として、離散して生きている主の兄弟たちを父と一つにすることです(ヨハネ17:20-23)。そして、この交わりは、終わりの時に、天において完全に一つにされます。主は、天において私たちの場所を用意するために、天において主に従う者を一つにするために、父のもとに帰られ、このために、主は今日も働いてくださっています。

主イエス・キリストは、わたしたちを天に連れていくために、父のもとに帰られました。この地上に来られ、徹底的にこの世を愛し、弟子たちを愛し尽くしてくださったキリストは、今日も、やがてすべての神の子たちが招かれるであろう、父との関係におられます。

《祈り》天の父なる神さま。主の復活と昇天とを覚えて、あなたの御名をほめたたえます。わたしたちの罪の赦しのために十字架で命を捧げてくださった主が、よみがえり、あなたのもとにあって、今日も執りなしてくださっていることを信じ、感謝をいたします。イエスさまが父なる神さまとの関係の中でいきたように、わたしたちにも聖霊を豊かに与えてくださって、永遠に取り消されない父との交わりに生かしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。(2024年1月14日  橋本いずみ)