2024年1月7日 主日礼拝

《 あなたの名を呼ぶ主 》

ヨハネによる福音書 20:11~18

マリアは、墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は、頭の方に、もう一人は、足の方に座っていた。天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向きて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

(ヨハネ20:11-16)

今日読んだ聖書の箇所にも、天使が登場しました。二人の天使は、一人で墓の前で立ち止まり、動けなくなっているマリアに「なぜ泣いているのか」と悲しみの理由と尋ねます。すると、そこからは、主の天使たちは姿を消し、復活の主イエス・キリストが現れて、マリアと対話を始めます。

わたしたちは、マリアのように、あまりに大きな衝撃を受けた時には、主が共におられることが、分からなくなってしまうことがあります。マリアにとって、イエスさまの死は、あまりに大きな出来事でした。その十字架の姿が目に焼き付いて、心に思い巡らすのは、主は死んだということなのです。受け止められないけれども、確かに起こった出来事が、マリアの心を支配し、主が復活されたということや、主が共におられるということを分からなくさせていました。

マリアは、イエスさまに名前を呼ばれた時、自分が悲しみをぶつけている方が、まさに捜し求めている主イエス・キリストであることに気づきます。イエスさまが、「マリア」と呼びかけると、マリアは「ラボニ」と応えます。

「ラボニ」は、「先生」という意味であると説明されています。「ラビ」よりもさらに尊敬を込めた言い方です。ヨハネによる福音書では、最初の弟子たちもイエスさまに「ラビ-先生」と呼びかけています(ヨハネ1:38)。イエスさまは、どのような先生だったのでしょうか。イエスさまは、神に至る道となる先生で、弟子たちは、その先生に従うように召されました。主イエス・キリストの教えと言われるものは、言葉や座学にとどまらず、キリストの宣教を包括的に示すもので、弟子たちと共に過ごす中で豊かに示されてきたものです。今は、聖霊が主体となって、教えて、主イエス・キリストが教えてくださったことを思い出させてくださいます(ヨハネ14:26)。

復活の主との出会いは、聖霊の導きの中で起こります。マリアは、主イエス・キリストご自身を希求していました。このお方と共に生きるしか、彼女の生きる道はなかったからです。彼女は、後ろ見て振り返っても(悔い改めて ヨハネ12.40)、まだ分からず、主が名前を呼んでくださる声を聞き(ヨハネ10:3)、「ラボニ(わたしの主、わたしの支配者)」と言って振り向く時に、はっきりと主はそのお姿を現して、触れることができるほど近くにいてくださいます。

《祈り》

 復活の主イエス・キリストの父なる神さま。主の年2024年最初の主の日を迎えました。今年は、年の初めからわたしたちの心を騒がせる幾つものニュースがありました。私たちは、主ご自身を求めて、この日ここに集いました。道であり、真理であり、命である主イエス・キリストを、わたしの主、わたしの先を生きてくださる、わたしの支配者と慕いつつ、歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。    (2024年1月7日 新年礼拝 橋本いずみ)