2024年2月11日 主日礼拝説教

《 真ん中に立つ人 》

ヨハネによる福音書 20:24~29

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、他の弟子たちが「わたしたちは主を見ました」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ20:24-29)

復活の主イエス・キリストは、弟子たちの真ん中に立たれ「あなたがたに平和があるように」と言われます。

洗礼者ヨハネは、「あなたがたの真ん中にあなたがたの知らない方が立っている」(ヨハネ1:26)と言い、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1.29)と神の御子イエス・キリストを指し示しました。主イエス・キリストは、この世の只中に立たれ、主イエス・キリストの十字架と復活は確かに時の中心に据えられました。弟子たちは、繰り返し、中心に立たれる神の御子イエス・キリストと出会うのです。

復活のイエスさまは、弟子たちの中心に現れました。復活のイエスさまがおられなければ、弟子たちの群れは、ただの人間の集まりで、彼らの心は恐れに支配されています。復活の主が、真ん中に来てくださることによって、彼らは、喜びに満たされて、平安になるのです。

キリストがおられなかったら、不安になりますし、キリストが中心に据えられていなければ、いくら「主を見た」との証言があっても、トマスがそうであったように、人の心は頑なになります。頑なになっていくトマスがいる弟子たちの真ん中に、復活の主イエス・キリストは立たれます。

弟子たちの恐れが平安に変えられていくその只中に復活の主がいてくださいました。不信仰が信仰に変えられていくとき、その中心に復活の主イエスさまがいてくださいました。

世界の中心に、人の中心に、自らが立とうとすると、争いが生まれます。中心を失った歩みは、恐れと不安がつきまといます。

弟子たちの間で議論が起こったとき、イエスさまは「あなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:27)とおっしゃいました。弟子たちの真ん中に立たれる主は、弟子たちに命を献げて仕えくださるお方です。トマスは頑なに「信じない」と言いましたが、復活の主は、そのトマスの言葉を聞いておられて、「あなたの指をここに持ってきて、わたしの両手を見なさい。あなたの手を持ってきて、わたしの脇腹に入れなさい。不信仰の人ではなく、信仰の人でいなさい」とその十字架の御傷を示されます。復活の主イエスさまは、わたしたちにも、「不信仰の人ではなく、信仰の人でいなさい」と呼びかけてくださいます。

そして、このお方が、わたしの主として、わたしたちの中心にいてくださることによって、わたしたちは、平安を得ます。

《祈り》復活の主イエス・キリストの父なる神さま。今日、復活の主がわたしたちの中心にいてくださること、世界の中心にいてくださることを感謝します。あなたが、教会の中心、世界の中心でいてくださることのほか、わたしたちが平安に生きる道はありません。復活の主イエスさまが、わたしたちの真ん中にいつもいてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。 

 (2024年2月11日  橋本いずみ)