2024年3月24日 主日礼拝説教

《 十字架への道 》

創世記 22:1~18

ヨハネによる福音書 18:1~11

主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は、敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は、すべてあなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 (創世記22:15-18)

イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 

(ヨハネ18:11)

父と子は、十字架への道を歩きました。父なる神さまとともに御子イエス・キリストは、歩まれました。それは、あのアブラハムとイサクの旅のようなものであったのかもしれません。

神さまは、アブラハムを試されます。神さまは、「アブラハムよ」と呼びかけ、アブラハムは、「はい」と応え、アブラハムは、神の御前におり、神の主権の中にいました。神は「あなたの息子あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命じます。アブラハムにとって、イサクは、神によって与えられた約束の賜物でした。命令の通りにすることは、子孫は失われ、未来は無くなってしまい、神の約束の旅の振り出しに戻るように思えたかもしれません。しかし、彼は、神の命令に従い行きます。その間に、イサクは、アブラハムに「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ね、アブラハムは「焼き尽くす献げ物の小羊は、きっと神が備えてくださる」と答えます。神が示してくださる地に向かって旅立った(12:4)アブラハムは、神が信頼しうることは知っていましたが、イサクのために神が救いを備えられるということを、まだ知りません。アブラハムが、イサクを屠ろうとしたとき「アブラハム、アブラハム」と

呼ぶ声が響き「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった。」と言います。

救いをもたらす神は、ご自分にまったき信頼を置くように、自由な主権をもって、与え、取り去り、約束し、命令し、試みます。

御子イエス・キリストにとって、父がお与えになった杯を飲むことは、十字架にかかること、命の道が絶たれることで、死しか予期されない状況でした。しかし、神は、十字架の苦難と共に、復活を告げておられました。神は、死しか予期されない状況に、神が新しい命を備えられました。

神は試みられる神です。主イエスの十字架は、神の試みの究極です。そこで、御子は「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言って、神の約束に信頼して、十字架の道を歩まれます。

アブラハムへの試みは、どのようにして解決されたか。主権をもって試みる神が、その恵みにおいて、小羊を備えて、試みを解決されます。イサクの身代わりとなる小羊は、偶然に、自然に現れたのではなく、神が備えられました。

主への信頼の旅を続けるものたちを、神は試みられます。試練とともに、神の小羊イエス・キリストを与え、逃れる道をも備えてくださいます。

《祈り》 十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。あなたを計り知ることは、できませんが、あなただけが、救いの道を開くことができると信じます。主よ、あなたは、備えてくださる神です。神さまの命令を聞き葛藤する中で、十字架の道を歩み、すべての人の救いを実現してくださった主を見出すことができるように導いてください。主の御名によって祈ります。

アーメン。(2024年3月24日 棕梠の主日 橋本いずみ)