2024年3月31日 主日礼拝説教

《 食べるものはあるか? 》

イザヤ書61:1~3

ヨハネによる福音書 21:1~14

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。      (イザヤ61:1-3)

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。   (ヨハネ21:9-12)

イースターおめでとうございます。復活の主は弟子たちに現れ、食事を用意し待っていてくださいました。

この聖書の箇所は、少し不思議です。復活のイエス・キリストは、20章で確かに現れてくださり、もうこれでこの福音書は閉じられたかのようでした(20:30-31)が、21章ではもう一度、復活の主イエス・キリストが現れます。ペトロをはじめとする7人の弟子は、ティベリアス湖にいました。ペトロにとっては、故郷であり、かつて自分が漁師として働いていたところです。彼らは、ペトロの呼びかけで、漁に出ましたが、その夜は何もとれませんでした。イエスさまに従っていく間に、かつての仕事の感覚が鈍くなってしまってダメだったのでしょうか。彼らの量が失敗で、何もとれなかったということは、かえって主イエス・キリストの言葉と力、その奇跡と栄光を際立たせるものになりました。

イエスさまは「子たちよ、何か食べ物があるか?」と声をかけ、弟子たちは「ありません」と答えました。彼らには、

食べ物(魚、パンと一緒に食べるおかず)はありませんでした。イエスさまが「その網を船の右側に投げ込め、見つかるぞ!」と言われて、その通りにするとおびただしい魚がとれました。彼らは、引き上げることができず、200ぺキス(約100メートル)ほどのところから、岸まで網を引いていきます。

ある人は、153匹の大きな魚は、153は、1から17までを足した数。主の言葉(10)と聖霊(7)によって、救われる人々を意味していると説明しています。

このティベリアス湖での不思議なイエスさまとの出会いと奇跡は、終わりのときの救いを示す出来事です。私たちは、教会という舟に乗っています。神の救いの出来事は、過去の経験や人間の力でなんとかなるものではありません。そのようなものを用いても、何にもとれないのです。しかし、主の言葉に従って、網を打つそのところで、大きな収獲が得られます。

神の国での食卓は、きっと、この朝の食事のようなものでしょう。私たち御国での食卓を待ち望みつつ、主が十字架の上でささげてくださった体であるパンをいただきつつ、復活の主との食事に与かります。主は、罪の力から私たちを解放し、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせてくださるお方です。

《祈り》 

十字架と復活の主イエス・キリストの父なる神さま。主の復活をほめたたえます。主は、死によって死を打ち破り、わたしたちを罪の力から解放してくださいました。終わりの日に、おびただしい収獲が与えられることを信じます。どうか、主の言葉と聖霊の助けによって、救われる者たちを与えてください。どうかキリストへの賛美で私たちの心を満たしてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2024年3月31日 イースター 橋本いずみ)