《 主イエスが来られるときまで 》
イザヤ書 62:1~5
ヨハネによる福音書 21:20~25
若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。 (イザヤ62:5)
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることをわたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたはわたしに従いなさい」それで、この兄弟は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 (ヨハネ21:20-23)
ペトロは、自分に対する主の計画を知り(18節)、イエスさまの「わたしに従いなさい」との言葉の通りに、イエスさまの後に従っていきました。すると、後ろからイエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えて、「この人はどうなるのですか?」とイエスさまに聞きました。主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と言われました。これは、彼は死なないということでも、イエスさまの再臨まで生き残るという約束でもありませんでした。この弟子も、高齢になって死ぬことになるのです。
ペトロに対する神様の計画が示された時、主に愛された弟子も、他の弟子たちも、自分たちもそうなるのかなと考えたかもしれません。しかし、神さまは、すべてのものに同じ最期を用意したのではありませんでした。ペトロは、主を愛し、主に従い、行きたくないところに連れて行かれ、殉教の死を遂げます。他方、主に愛された弟子は、(死なないのではないかとの噂が広まるほどに!)長く生きて、次の世代に主とともに生きたとを伝えました。主に愛された弟子(ヨハネ)は、自分の名前を出さないで、この福音書を書き記
しました。ヨハネによる福音書において、ペトロと主の愛された弟子は、イエスさまが捕えられた時も一緒におり(ヨハネ18:15)、イエスさまの墓には競うようにして走っていきました(20:1-10)。しかし、神さまの計画はそれぞれ違ったものがあるのです。神の計画は、他の人が踏み入れることのできないものです。ペトロに再度「わたしに従いなさい」と言われるように、主が命じられたところに、それぞれが従っていくのです。
ペトロには主を愛することを求め、愛することによって愛されたことをしっていき、愛された弟子は愛されることによって、愛するものになっていくのです。彼らは、主がそれぞれにお与えになった神の計画を受け入れて、復活の主が永遠の命の交わりのうちに、定められた道を歩みました。主の弟子の中には、殉教する者がおり、生き残る者がいました。彼らは、いずれにしても、同じ主に仕えた弟子であり、彼らのすべてを導かれるのは、同じ主です。与えられた地上での生涯は、一方は短く、一方は長かったのですが、いずれも主が来てくださるときを待ち望みつつ、主を証しして生涯を終えました。十字架と復活の主が、それぞれに対する神のご計画を示してくださって、主が来られるときに至るまで教会を導かれます。
《祈り》
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神さま、復活の主を通して一人ひとりに神の計画を示してくださることを信じ感謝いたします。わたしたちの命がどれほどなのか、私たちにはわかりませんけれども、主が再び来てくださるとき、あなたが私たちを喜んで迎え入れてくださる日を待ち望みつつ、それぞれに主を愛し、主に従う歩みを続けることができるように導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2024年4月14日 橋本いずみ)