2024年11月24日 主日礼拝説教

《 永遠の贖いが成し遂げられた 》

出エジプト記 26:33~34

ヘブライ人への手紙 9:1~14

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、さらに大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして永遠の“霊”によって、御自分をきずのないものとして神にささげられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。(ヘブライ9:14)

私たちは、なぜ神さまを礼拝するのでしょうか?どうして、私たちは、神さまに仕えるのでしょうか?いろんな側面から答えることができると思いますが、今日、与えられた御言葉から答えるのであれば、キリストの血が献げられ、永遠の贖いが成し遂げられたからと言えるでしょう。

ヘブライ人への手紙では、7章から旧約と対比させながら大祭司イエス・キリストについて語っています。今日の聖書の箇所は、神さまを礼拝するということに関して、古い約束で行われてきたことと、大祭司イエス・キリストが開いてくださった新しい礼拝への道を示しています。

旧約では、第一の幕屋と呼ばれる「聖所」と第二の幕屋と言われる「至聖所」がもうけられました。民は聖所に入って、年に一度大祭司が至聖所に入って、礼拝をしました。大祭司は、至聖所に入って、自分自身のために、民の過失のために、犠牲をささげました。ここで、「過失」と言われていますので、知らずに犯した罪のためのものです。民は、どんなに神に近づきたいと思っても、聖所から至聖所へと入って行くことができるのは、大祭司一人でした。

幕があって神に近づくことができなかったのです。おそらく、旧約の時代に生きた人たちも、私たちと同じように、神によって、罪への自責から自由にさせること、新しい出発、癒された心を求めたでしょう。しかし、目に見えるところでは、毎年繰り返し大祭司が至聖所に入って行くのですが、良心に関しては、赦しを与えられて、神との交わりを回復することはできなかったのです(エレミヤ書31:31)。「良心」と訳された言葉は、意識、自覚、確信とも訳すことができます。人の意識、自覚、確信を完全にすることはできなかったのです。

大祭司イエス・キリストの血は、行いでは決して完全にはならない良心(意識、自覚、確信)を清めてくださいます。キリストの血が、神への礼拝へと向かわせる。聖書においては、血は、命そのものとして受け止められています。キリストが、その命をどのように用いられたのか、それが、わたしたちの良心を聖なるものとし、神への礼拝に導くのです。十字架と復活の主イエスは、いける神との交わりに、私たちを招いておられます。あなたは今日、罪への自責から自由にされて、神に近づき、新しく出発することができます。

十字架の主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまの執り成しによって、あなたに近づくことが許されている恵みを感謝します。罪への自責を十字架の主に委ねます。イエスさまが与えてくださった命をいただいて、神さまが共におられる人生を歩んでいくことができますように。日々の生活を通して、あなたの名が崇められますように。主の御名によって祈ります。

アーメン。           (2024年11月24日 橋本いずみ)