2024年12月29日 主日礼拝説教

《 幼子イエスを連れて行く旅 》

マタイによる福音書 2:13~23

ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母親を連れて、イスラエルの地に帰って来た。

(マタイ2:19-21)

先週は、御子イエス・キリストの御降誕を祝い、キリストが共にいてくださる歩みを始めたました。わたしたちも、キリストが共にいてくださる人生を歩んでいることを受け止めて新しい年を迎えたいと思います。

再びヨセフが登場します。ヨセフがイエスと名付けた子どもは、聖霊により生まれた子どもでした。そして、その存在は、ヨセフに、マリアに、そして、全世界に、そしてわたしたちにも、大きな影響を与ることになりました。ヨセフは、この幼子と歩むことなしには、エジプトに住むとことも、ユダヤの王ヘロデに怯える必要もありませんでした。幼子が主体的に動くのではなく、ヨセフが幼子を連れて行くのです。

わたしたちの人生においても、幼少期に経験したことがその後の人生に大きく影響を及ぼすことがありますが、ヨセフが幼子イエス・キリストを連れて旅したことは、イエスさまが、弟子たちとともに歩む道に通じるものがあります。

神さまは、ヨセフに夢で語られます。それは、マリアが身ごもっていることを知り、縁を切ろうと決心していた時もそうでしたし、今日読んだ聖書の箇所で、エジプトに行く時も、イスラエルに帰ってくるときも、夢で語られます。最初の時には、「恐れるな」だったのですが、幼子イエス・キリストを連れて旅しているその中では「起きよ(立て)」と呼びかけられて、行くべき所が示されました。ヨセフは、神さまの呼びかけを聞いて、それに応えてベツレヘムからエジプトへ、イスラエルへ、ナザレの町へと導かれました。

キリスト共に歩むことは、神さまの「起きよ(立て)」との呼びかけに応答し、導かれて行くこと。

「起きよ」という言葉は、復活をあらわす言葉としても用いられる言葉です。ですから、十字架と復活の主にあって、それによって成し遂げられる罪からの救い、主イエス・キリストが成し遂げる救いの真理と恵みに立つということ。ヨセフは、幼子とその母を連れて行った(1.24「迎え入れ」、ヨハネ14:4「わたしのもとに迎える」、コロサイ2.6「主キリスト・イエスを受け入れたのですから」)。

幼子イエス・キリストを連れて行く歩みで起こったことは、預言者を通して言われていたこと、つまり、神が告げておられたこと、神の救いの計画だと伝えています。ヨセフは、幼子イエスさまを受け入れと、主の呼びかけに応えて行く中で主の言葉の実現を見ていきました。そして、この歩みの中で、世の支配者ヘロデによって慰められることも求めないような恐ろしい事態が起こる。エレミヤが告げていたことですが、預言の成就するためと語られておらず、闇の力が支配することの現実を告げています。確かに闇が力を振るう時、恐ろしいことが起こるけれども、主ともに歩むものたちは、救いの御心が実現することを教えられ、主が迎えてくださる日を待ち望みつつ歩ます。

【祈り】天の父なる神さま。闇が力を持っているような恐ろしい事態が、今年もありました。しかし、主イエス・キリストを連れて行くものたちに、時に応じて御言葉を語り、神の救いの計画が実現していることを示してくださることを感謝します。主が世の救いのために来てくださったことを覚えつつ、キリストと共にある歩みを続けさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2024年12月29日 橋本いずみ)