2024年6月23日 主日礼拝説教

《 人生の最後に知らされた大切なこと 》

ヨハネによる福音書 3:1~16

ファリサイ派のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者がおりました。ニコデモはユダヤ最高会議のメンバーであり、その学識、経験、幅広い人間関係において並ぶ者がない人生の成功者でした。

ある時このニコデモが何の前触れもなく主イエスを訪れます。しかも時は夜更けでした。主イエスはニコデモから見れば、新しい律法解釈を行うひとりの指導者でしたが、家柄もなく、大工の子に過ぎませんでした。そこでニコデモは社会的立場を意識して、人に見られるのを警戒したのです。

ニコデモはひとつの不安を抱えていました。人間は死んだときどうなるのだろう。他のファリサイ派の者たちが信じているように、自分もこれまで律法に忠実であったので復活に与るはずである。しかし、その後はどうなるのだろう。神の裁きはあるのだろうか。新しい世界でも律法を完全に守れるだろうか。ニコデモの不安は尽きませんでした。その不安の中でニコデモは、同僚たちから聞かされる「イエスの教え」にひとつの希望を見いだしていました。

主イエスのところに招き入れられたニコデモは驚くような言葉を聞かされます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ニコデモは恐らく、あなたのような経験と実績のある人なら、間違いなくわたしが言うところの神の国に入ることができますと告げられるに違いないと想像していました。しかし、主イエスの対応は意外なものでした。

ニコデモは言われていることの意味が分かりませんでした。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」高尚な宗教問答のようです。

主イエスは慈しみをもって再び仰せになりました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

主イエスはニコデモに、「父なる神はあなたを愛しておられます。この国の人たちは、律法を正しく、落ち度なく守ることで、神の国に入れていただけると考えています。しかし、そうではなく、神の赦しと愛に信頼を置く信仰によってわたしたちは神の国に入れていただけるのです。こののち、あなたは神の愛に気づかされ、洗礼を受け、同時に聖霊を受け、自分で気づかないままで生まれ変わるでしょう。そして、神の愛の中に留まり続けることになるでしょう。」と仰せになったのでした。

ニコデモはこの主イエスの言葉に困惑しながら「どうして、そんなことがありえましょうか。」と答えましたが、そのときニコデモの心に小さな灯がともりました

ニコデモはこの日、喜びのうちに、主イエスがまことに神から遣わされて来られたお方であることを信じ受け入れ、たとえ主イエスがこのあと大きな苦難に遭われることがあっても、このお方に従って行こうと心に決めたのでありました。

(2024年6月23日 福井博文 牧師・引退教師)