2024年7月14日 主日礼拝説教

《 神の家 》

民数記 12:6〜8

ヘブライ人への手紙 3:1~6

主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者全てに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う、あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、恐れもせず、わたしの僕モーセを非難するのか。」                                 (民数記12:6−8)

だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。…さて、モーセは将来語られるはずのことを証するために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

(ヘブライ人への手紙3:1−6)

「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」という呼びかけから始まる、今日読んだ聖書の箇所には、教会とは何か、ということが、よく言い表されています。

兄弟たちへの呼びかけの言葉は、「ひとつの、聖なる、公同の、使徒的な教会」(ニケア信条)を信じる信仰が表されています。教会は、一人の主に結ばれることによって一つとなった兄弟姉妹、神の家族です。教会は、イエスさまによって聖別され、聖なる務めのために召し出されました。そして、教会は、キリストの似姿として、この世へと遣わされていきます。教会が使徒的であるということは、十二使徒やパウロと繋がっているだけでなく、使者であるイエスさまに繋がっているからです。イエスさまが、神さまからの使者として遣わされたように、教会もこの世に遣わされます。イエスさまが、大祭司がとして民が神の前に携えていくものを代わりに携えて聖なるところに昇って執り成してくださったように、教会も、この世のために執り成し祈ります。

わたしたちは、主の日ごとに信仰告白をしますが、信仰を告白するというのは、神を認めることであり、神の約束を賛

美することであり、わたしたちの生き方を形作るものであり、この世への宣言です。ですから、公に言い表しているイエスさまを考えなさい、よく見て観察しなさいさい、と勧められているのです。

イエスさまをモーセとの対比の中で、考察します。モーセもイエスさまも、忠実であったということ。モーセよりも大きな栄光を受けられる方として、イエスさまは尊ばれるということ。モーセは、神の家の中で仕える者でしたが、イエスさまは御子として家を治めるものです。

ここで、家という言葉がいくつかの意味で用いられています。「モーセが神の家全体の中で」(2節)というときには、神の民(共同体)という意味で用いられていますが、「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように」(3節)では、家屋、居住場所のことを意味しています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」(6節前半)では、神の共同体、神の家族を意味し、後半「わたしたちこそ神の家」という時には、聖霊の宮、いける共同体、信仰の家族を意味しています。

最後に「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならばわたしたちこそ神の家なのです」と言っています。確信は大胆さ、誇りは高慢を意味する言葉です。神の家である教会は、神が約束に忠実でいてくださることへの確信によって、希望の事柄として、確信と誇りを表明し続けます。

【祈り】

教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神さま。あなたが、御子を遣わしてくださったこと、大祭司御子イエス・キリストが今日も執り成してくださっていること、感謝します。主よ、わたしたちを聖霊の力によって、まことの神の家にしてください。わたしたちがキリストにあって一つとされ、聖なるものとされていることを感謝しつつ、キリストの愛と救いの業に仕え、執り成しにいきることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。  (2024年7月14日 橋本いずみ)