《 今日という日のうちに 》
詩編 95:1〜11
ヘブライ人への手紙 3:7~19
主は私たちの神、わたしたちは主の民
主に養われる羊の群れ、御手の内にある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 (詩編95:7)
兄弟たち、あなた方のうち、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」 (ヘブライ3:12−15)
「今日」という日を神さまがわたしたちに与えてくださいました。「日用の糧を今日も与えたまえ」(主の祈り)と祈りながら、「今日」という日を重ねて生きてきています。
先週、読んだ聖書の箇所では、わたしたちこそ「神の家」である(ヘブライ3:6)と告げられていました。私たちは、今日、神の家で、主にある共同体に身を置き、ともに主の声を聞き、御言葉による養いを与えられ、神の家族とともに、聖なる休息を与えられます。「わたしたちこそ、神の家なのです」と言われる教会、信仰の共同体において「今日という日のうちに、日々励まし合いなさい」と勧められています。
今日読んだ聖書のヘブライ人への手紙は、詩編95編7節後半以下の引用から始まります。詩編95編は、創造主なる神さまを賛美し、神さまへの不服従と反抗の結果を指摘しつつ、礼拝へと招きます。神さまはモーセを民の指導者として召し出し、エジプトの国、奴隷の家から民を導き出されました。こうして神の民となったイスラエルでしたが、荒れ野でメリバやマサで(出17:1-7、民20:1-13、民14:1-36)、神さまが救いの業をなされていることを思い起こすことなく、意気消沈し、神さまが自分たちを殺そうとしているのかと言いだしたのです。神さまが救いの業をなされていること、約束の地に導こうとはたらいていることを、忘れてしまって、独自のバッドエンディングを思い描いて、
神に語る言葉や態度を、心を頑なにした、試みた、験した、反抗した、信仰のない悪い心を抱いた、神から離れたと言っています。そして、罪に惑わされて、頑なにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさいと勧められています。
イエスさまが、十字架にかかって復活し、罪の支配からわたしたちを導き出してくださいました。主の救いの業に「アーメン」と言って、洗礼を受けて、神の家の一員にしていただきました。けれども、思い煩いがあり、苦しいことがあり、飢え渇きもある。明日への不安もなかなか拭えないのです。ここで、私たちは、過去の神の民の歴史から、学ばなければなりません(16-19節)。神さまは、わたしたちを神と共にあるために、イエスさまがこの上なくわたしたちを愛し抜かれて十字架にかかり、罪の支配から導き出してくださいました。これが、私たちの信仰の旅路の最初に与えられたことです。
主は、今日という日をわたしたちに与えてくださいました。今日は、永遠の今、神さまの恵みにあずかるとき、切迫した時の中で、信仰に関する決定的な瞬間、主の御前にあって心を決めるチャンスです。御国の安息に共にあずかるよう励まし合いつつ、神の家で憩います。
【祈り】
教会の頭主イエス・キリストの父なる神さま。聖なる御名を賛美します。あなたが御国の平安にわたしたちを導き入れるために、召し出してくださったを信じ感謝します。一人では、神さまの救いのご計画を思い起こすことなく、罪に傾き、心頑なになるわたしたちを、今日、神の家に招いてくださいました。群れの中で、わたしたちをあなたが養い育てて、あなたの救いの計画を思い出させてくださいます。今日という日のうちに、励まし合って、福音の前進のために仕えさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 (2024年7月21日 橋本いずみ)