《 安息日の休み 》
創世記 2:1~3
ヘブライ人への手紙 4:1~11
天地万物は完成された。第七の日に神はご自分の仕事を完成され、第七の日に神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記2:1-3)
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。…それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者がでるかもしれません。(ヘブライ4:1、9-11)
皆さんは、休んでいるでしょうか?休むということは、私たちの人生にとって、とても大切なことです。「今日」という日のうちに、神の安息にあずかることを覚えたいと思います。
今日与えられた聖書の箇所は、3章7節から続く御言葉(詩編95:7-11の引用)から始まる部分の続きです。
神さまは、ご自分の安息にあずからせようと約束をしていました。旧約聖書の神の民は、神の約束の言葉を心に留めることなく、荒れ野で不平を言い、神さまの安息にあずかることのできなかった者たちがいました。
安息は、時の始まりと時の終わりに関係しています。第一に、創造の業が完了したときに休まれました。第二に、安息は、完成された贖いの業によって、労苦や悩みから解放され、死は打ち滅ぼされ、神さまの救いの意思をくじこうとするあらゆるものが滅ぼされるところにあります。
世界の始まりにあった神の休み、安息にあずからせようと、神の民には「安息日を心に留めて、聖別せよ」とおっしゃり(出エジプト20:8-11)、安息の地を与えようとされました。しかし、民の不信仰によって、神の民は、神の安息にあずかることができませんでした。かつての神の民によっては成就されなかった約束ですが、神さまは、ご自分の安息にあずからせようという約束を忘れてはいません。
神の安息にあずからせようという約束は、わたしたちに与えられているのです。かつての神の民は、決定的な瞬間である「今日」という日に、不従順でした。それでは、イエスさまによって救いへと招かれた「今日」という日を与えられているわたしたちはどうでしょうか。ヘブライ人への手紙は、「わたしたちは、気をつけよう(恐れよう)」(4:1)、「わたしたちは、努力しよう(熱心に努めよう)」(4:11)と勧めます。
神の救いのスポットライトが当てられる今日という日に、限りある時の中で永遠を垣間見るときに、神が決定的に出会ってくださる瞬間に、人は恐れるのです(ルカ2:9,10)。神さまは、わたしたちに安息を与えてくださいます。安息の地を与えて、休ませてくださいます。
安息は、神さまの約束であり、賜物です。完全な安息は、「玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目からことごとく涙を拭われる」(黙示録7.17)と約束として、わたしたちに与えられています。この約束の前触れを、神の言葉の勝利を信じて賛美し生きるときに、少し経験することができます。神さまは、ご自分と一緒に安息にあずかるようにと、わたしたちを招いて、今日の休みを与えてくださいました。
【祈り】
世界を創造し、聖なる休みへとわたしたちを招いてくださる神さま。あなたの創造と救いの御業が今日もなされていることを信じ、あなたの御名をほめたたえます。主が今日という日を与えて、あなたの安息にあずからせようとわたしたちをここに招いてくださったこと感謝します。主よ、あなたが出会ってくださる瞬間に敏感に驚き恐れるものであらせてください。あなたの安息にあずかることに熱心であらせてください。と主の御名によって祈ります。アーメン。 (2024年7月28日 橋本いずみ)