2024年7月7日 主日礼拝説教

《 同じようになってくださった 》

ダニエル書 9:23~24

ヘブライ人への手紙   2:14~18

それが過ぎ去ると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。      (ダニエル9: 24)

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられたのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟と同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。                         (ヘブライ2:14−18)

試練を受けている人を御子イエス・キリストは、助けに来てくださいます。父なる神さまは、御子イエス・キリストによってご自身をあらわされました。神さまの全能は、御子にあらわされています。御子は、試練を受けている人たちを助けることができる。それは、御子が、血と肉を備え、苦しみを受けられたからです。

試練の中で、イエスさまに向かって「助けてください」(マルコ9:22、24)と叫んだ人がいました。引き付けを起こす息子の父親です。困り果てた父親は、イエスさまのところに息子を連れてきました。幼い時から、何度も火の中や水の中に飛び込み、この時も、息子は、地面に倒れ、転び回って、泡を吹きましたこの父親は、弟子たちにはできませんでしたが、イエスさまにはできるかもしれないとの信頼を寄せて「憐れんで、助けてください」、イエスさまのところにやってきました。けれども、自分一人では、自らの不信仰を克服できませんでした。そして、「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫びました。写本の中には、「数々の涙と共に」こう言ったというものもあります。

信仰者の苦しみ、試練というのは、この父親の叫びに現れていると思うのです。信じている、けれども、不信仰を克服できない。

わたしたちは、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」(主の祈り)と祈ります。真価を実証させるための「試み、試練」、罪への堕落への「誘惑」はコインの裏表みたいなものです。それは、人間や諸勢力を通してもたらされます。イエスさまは、血と肉、悪魔と死が猛威を振るっている足を踏み入れられ、試練、誘惑を受けられ、他の人が死ぬのと全く同じように、イエスさまも死なれます。

しかし、イエスさまは、ただ一人の人が死んだというだけではありませんでした。イエスさまは、罪の奴隷ー死の恐怖に支配されているものたちを解放なさるために、死んでくださったのです。死は、イエスさま抜きに考えるのであれば、「肉体の生の終わり」を意味すると共に、「永遠の滅びへの入り口」です。御子イエス・キリストが死に復活されたがゆえに、死は、「永遠の命への入り口」となったのです。

イエスさまは、試練、誘惑の時、神への信頼を明らかにされていきました。信じていても、なお一人では克服できない不信仰のなかで、「信じます。信仰のない私を助けてください」と叫ぶ声に、主が応えてくださいます。試練と誘惑の時、それは、神への信頼が明らかにされる時です。

【祈り】

十字架で死に復活された主イエス・キリストの父なる神さま。イエスさまが、罪の力を破り、死に打ち勝ってくださって、生きる時にも、死ぬ時にも、主が共にいてくださる恵みを感謝します。主よ、試練の中で叫ぶわたしたちを助けてください。罪と悪の力から、わたしたちを救い出してください。与えられた命を用いて、主への信頼を表すことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

  (2024年7月7日 橋本いずみ)