2024年8月25日 主日礼拝説教

《 恵みの座に進み出よう 》

出エジプト記 28:39~43

ヘブライ人への手紙 4:14~16

アロンとその子らがそれを身につけていれば、臨在の幕屋に入ったとき、あるいは聖所で務めをするために祭壇に近づいたとき、罪を負って死を招くことがない。これは彼とその後の子らにとって不変の定めである。

(出エジプト 28:43)

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。     (ヘブライ4:12-13)

畏れをもって、しかし、大胆に恵みの座に進み出るようにと、聖書は勧めています。

福音主義教会が大切にしていることの一つに、「全信徒祭司」ということがあります。すべてのキリスト者は、祭司であるということです。すべてのキリスト者は、祭司となって、神に仕え、礼拝をささげ、他者のために執り成し祈ります。

今日ヘブライ人への手紙と合わせて読んだのは、出エジプト記28章には、祭司の身につけるものが記されていきます。彼らは、神に仕える祭司として、聖別されて、その務めにつきました(29章)。神の民の中でも、特別な役割が与えられています。彼らは、そのままでは、神に仕えることはできないのです。聖別されて、定められたものを身につけて、その務めに当たりました。そうでなければ、罪を負って死を招くゆえに、至聖所に置かれている贖いの座に近づくことはできませんでした。罪を抱えたまま、神に近づくということはできない、聖別されることなしに、神の贖いの座に近づき、神に仕えることはできませんでした(レビ16:1-14)。現に、アロンの二人の息子は、死んだのです(レビ10:1-2)。

ヘブライ人への手紙では、神の民の罪の贖いがなされるそのところ「贖いの座」は、「恵みの座」と言い換えられて、そこに進み出ようと勧め、偉大な大祭司神の子イエスが、与えられていることを思い起こさせています。

大祭司神の子イエスが、聖所をとおり至聖所に入るように、十字架にかかってすべての贖いを成し遂げ、復活し、諸々の天を通過され、神への道を切り拓いてくださったがゆえに、恵みの座に進み出ようと勧めるのです。

 神の御子イエス・キリストが大祭司となってくださったということなしに、わたしたちは恵みの座に近づくことはできません。大祭司イエス・キリストを抜きにしては、神のおられる聖なるところは、私たちを焼き尽くす恐ろしいところでしかないからです(出エジプト3:1-6)。キリストが成し遂げてくださった贖いがあるがゆえに、わたしたちは、神のおられる聖なるところ、恵みの座に進み出ます。わたしたちも、祭司となって、祈りの中で、主の憐れみを求めて、主の前に進み出ます。わたしたちは、神がおられる聖なる所で、主の贖いを思い起こし、主の恵みにあずかります。

【祈り】

天の父なる神さま。御子イエス・キリストが、わたしたちのあがないを成し遂げてくださったことを、恐れと感謝をもって受け取ります。イエスさまが大祭司となって、わたしたちの弱さを自らの弱さとして、わたしたちの罪を負って、十字架にかかってくださいました。主が、今日も大祭司として、執り成していてくださることを感謝します。私たちも、キリストを身にまとい、神に仕え、礼拝を献げ、他者のために取り成すものとしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。 

(2024年8月25日 橋本いずみ)