2024年8月4日 主日礼拝説教

《 さあ、ついて来なさい 》

マルコによる福音書1:16~20

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。(マルコ1:16-17)

雄大なガリラヤ湖のほとりを通っておられたイエスさまは、シモンとアンデレ兄弟、ゼベダイの2人の息子ヤコブとヨハネという4人の漁師の姿をとらえ、深くご覧になられます。そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主は彼らを招かれました。実は「ついて来なさい」という言葉を直訳すると「さあ、わたしの弟子となってわたしのうしろへ」となります。このとき、イエスさまは共に福音を語るご自身の弟子となる人物を探しておられたのでした。なぜならガリラヤにおいてすでにイエスさまの福音宣教が始まっていたからです(1:14,15)。このシモンは、後にペトロと呼ばれるようになり、イエスさまの12人の弟子の最重要人物となります。

それにしてもなぜ彼らが弟子に選ばれたのでしょうか。彼らは律法の専門家ではないし社会的に力があったわけでもありません。まさに主の恵みです。本来なら選ばれるはずのない力無き弱い存在の彼らだったからこそ、そこに神の御業が働かれたのです。エレミヤ書にはこう書かれています。「母の胎から生まれる前に/ わたしはあなたを聖別し/ 諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ1:5b)エレミヤは母親の胎内に宿る前から神に知られ、預言者となるべく聖別されていたと神は語られたのです。イエスさまの弟子とされたシモンたちもまたエレミヤと同じように、イエスさまの福音を宣べ伝える弟子として、生まれる前から聖別されていたのかも知れません。それは私たちにとっても同じように受け入れることができるのではないでしょうか。私たちが教会へと招かれたのもまた神の招きがあったということです。初めて教会へ入ったあの日。なにもわからないまま知人に連れてこられたのかも知れないし、自分で選び自分の意志で教会へ来たと記憶されているかも知れません。でも実はそれはイエスさまの招きがあったからなのです。主の御言葉によって生きる者となるよう、神の国を受け継ぐ神の民として、神とともに生きる者であるよう、あらかじめ聖別されていた、そう言えるしょう。主の愛を知らず、ただ闇の中を歩んでいた日々の中に、突然、神の「恵みの時」(イザヤ49:8)が訪れたのです。それは決して人間の思いや力で成し得ることではありませんでした。

18節、「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。ヤコブとヨハネも父親を舟に残して主に従いました。この「すぐに」は、原語では、時間的な速さだけでなく「まっすぐに」という意味も持っています。4人の漁師たちは主の招きに対し、まっすぐな気持ちで応えたのです。イエスさまが彼らを深くご覧になられてまっすぐな思いで彼らを招かれたように、彼らもまた主をまっすぐに信頼し招きに応えたのです。

わたしたちも「さあ、わたしのうしろへ」とイエスさまから招かれています。主が先を歩んでいて下さることは大きな希望です。主の福音を知らされた者として、主の福音を告げ知らせていく者として、感謝と喜びをもって、主をまっすぐに信頼し歩めるよう主の導きを祈ります。

【祈り】

主イエス・キリストの父なる神さま。御名を賛美いたします。主はわたしたちを恵みによって捕らえてくださり「さあ、わたしのうしろへついて来なさい」と慈しみをもって、わたしたちを招いてくださっています。その恵みの御言葉に従い、ひとりひとりの賜物が用いられ、主イエス・キリストを証しする者でありますように。またそのために、あなたを頭とする教会の働きの上にも豊かな祝福をお与えください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン

(2024年8月4日 原妃弥子 東京神学大学4年)