2024年9月15日 主日礼拝説教

《 警告と救いの望み》

創世記 3:17~19

ヘブライ人への手紙 6:1~12

お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。(創世記3:18)

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ侮辱する者だからです。…神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブライ6:4-6,10-12)

キリストの教えの初歩から、信仰の成熟へと向かうように勧める中で、救われ得ない堕落、再び悔い改めに立ち帰らせることができない現実があるということを告げています。これは、神さまに力がないというよりは、新たに悔い改めるという主観的な力がないがゆえに、どんなに信仰の仲間たちが、熱心に訴え、祈り、労し、気に病んでも、どんなに神さまの力が働いていても、助けようがないということです。

これは、まだ主の救いを知らない人たちではなく、一度光に照らされて(洗礼を受けて)、天からの賜物を味わった人についてのことです。福音について深い洞察力を持っている人、人生のどん底で恵みを経験した人、神の霊の導かれ慰められたことを認識している人、神さまが心に語りかけるのを聞いたことのある人、この世が与えることができない平安を主から与えられてきた人です。光に照らされてというのは、神さまの愛と憐れみを、深く味わった人です。それなのに、捨て去ることは、もう一度、主を十字架へと吊し上げていると同じだと、非常に厳しく迫っています。

これは、恐ろしく悲惨な現状を訴えるということよりかは、「愛する人たち」と呼びかけることから分かるように、キリストの教えの初歩に留まり続けて、信仰共同体からから離れてしまった者たちを連れ戻すことができないという現状を嘆き悲しみつつ、彼らの仲間になるのではなく、信仰の成熟へと進み、約束されたものを受け継ぐ人になってほしいとの願いゆえに語られていることです。

耳が鈍くなっていると語り、堕落したものを再び悔い改めに立ち返らせることはできないと話しながらも、信仰の成熟へと進み、忍耐と希望によって、もっと良いこと、祝福にあずかることになることを期待しています。なぜなら、聖なる者たちに仕えてきたし、今も仕えているからです。そして、聖なる者たちに仕えてきた愛を神さまが忘れるはずがないからです。

神さまはあなたがたが仕えてきたことを忘れるはずがない。信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たち(ヘブライ11:1-39)を見倣う者として、信仰の成熟へと向かっていくことを願っています。

【祈り】

教会の頭、主イエス・キリストの父なる神さま。主の光によってわたしたちを照らし、天からの賜物を与えてくださいました。キリストの教えの初歩をわたしたちに教えてくださり、聖なる希望のうちに、忍耐を与え、信仰の成熟へと導いてくださることを信じます。あなたの祝福にあずかり、あなたが語られる言葉を聞き、あなたの平安に満たされ、福音の真理をさらに深く知り、約束されたものを受け継ぐものとしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。       (2024年9月15日 橋本いずみ)